井嶋ナギの日本文化ノート

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早稲田大学オープンカレッジ講座「人物像で読み解くキモノファッション文化史 Ⅰ」のお知らせ


お知らせです。去年に引き続き、今年も4月から、早稲田大学オープンカレッジにて講座をおこないます…!

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人物像で読み解く「キモノファッション文化史」Ⅰ
  〜花魁、太夫から、町娘、お姫様に悪婆まで〜


【日程】4/16(土)、4/23(土)、5/07(土)、5/21(土)、6/04(土)
【時間】13:00~14:30(90分)
【場所】中野校キャンパス →MAP
    (JR中央線、JR総武線、メトロ東西線 「中野駅」徒歩10分)

【講義概要】
着物が日常着だった江戸〜昭和初期にかけて、身分や職業、年齢などによって装いに差異・特徴があるのは当然のことでした。
そうした時代の「装いのルール」や「歴史」について、具体的な「人物像」(花魁、太夫、女房、町娘、姫君など)を設定しながら、分かりやすく解説します。
また、歌舞伎、日本舞踊、浮世絵、映画、文学などの諸芸術文化における「装いの描かれ方」についても、資料を鑑賞しつつ理解を深めていく予定です。

【各回の講義予定】
4/16 花魁・太夫(1) : 吉原と島原を中心に、遊郭の遊女たち
4/23 花魁・太夫(2)
5/07 町娘・姫君(1) : 江戸で人気の町娘、そして武家のお姫様
5/21 町娘・姫君(2)
6/04 女房・悪婆  : 江戸と上方の女房、悪婆というアバズレ女

本講座の続編『人物像で読み解く「キモノファッション文化史」Ⅱ』は、今年秋10・11月に行う予定です。


【受講費】
早稲田大学オープンカレッジ会員の方 11,826円
早稲田大学オープンカレッジ会員ではない方(ビジター) 13,608円

【早稲田大学オープンカレッジ会員について】
・会員の有効期限は、入会年度を含めて4年度間(3月末日まで)
・入会金8,000円
・入会金6,000円の特例あり(ビジターとして過去に受講された方、早稲田大学オープンカレッジ会員の紹介、早稲田大学卒業生、早稲田大学在学生父母、東京都新宿区・中央区・中野区に在住・在勤の方、ほか)
・会員にならずにビジターとしての受講も可能です
・詳細はコチラを御覧ください

【申込受付】一般・ビジターは、3/10より受付開始
【申込方法】Web、Tel、Fax、各校事務所窓口 にて受付中
・詳細はコチラを御覧ください



本講座はどのような内容なのか?


というわけで、今年の講座は、おととし2014年に開催した「人物像で読み解く着物ファッション」の拡大版です!(2014年の講座レポートはコチラの記事を御覧ください→「人物像で読みとく着物ファッション」についてのレポートです」)

2014年から2年間、人物像、日本文学、歌舞伎、などなど、さまざまな視点から着物ファッションを見てきましたが、毎回時間が足りなくなってしまうのが、気になっておりました…。そこで、今年は、春・秋と連続した講座にすることで、従来よりも詳しく、深く、着物ファッションを見ていきたいと思っております!(本講座の続編にあたる『人物像で読み解く「キモノファッション文化史」Ⅱ』は、今年の秋10・11月に行う予定です!)

講座内容としては、当時の装いの「ルール」について細かく解説するだけでなく、その背景にある「歴史・変遷」についてもひも解きながら、さらに、歌舞伎・日本舞踊・浮世絵・映画・文学などの諸芸術文化における「装いの描かれ方・現われ方」といった文化史的な側面もしっかり見ていきます(つまり、基礎編+応用編です)。

とにかく、今まで時間の関係でご紹介できなかった資料や映像がたくさんあるので、できるだけ具体的な資料を鑑賞しながら、より楽しく、より多角的に、着物が日常だった時代を “肌で感じ取りながら” 理解できる内容にしたいと思っております。

初めて受講される方はもちろん、過去に受講くださった方にも楽しんでいただけるよう、新たな資料をお持ちして、よりディープにマニアックに(笑)お話する予定です!



なぜ「人物像」を設定するのか?


それから、なぜ「人物像」を設定するのか? についても書いておきたいと思います。

講座やトークイベントなどでもずっとしつこく(笑)言っているのですが、、私は、キモノを知るためには、「着る人」について知ることがとても大切だと考えています。なぜなら、キモノは身分社会のなかで発展してきた服飾文化であるため、身分・職業・性別・年齢・境遇…といった条件によって、その内容が大きく変わってしまうから。さらに言えば、季節・場所・機会(Time・Place・Occasion)によっても内容が変わりますが、これは今でも同じですね。「いつ着るのか?」ももちろん大事ですが、その前に、「誰が着るのか?」が、当時は最も大事だったわけです。

そうしたことから、キモノについて語る際には、「人物像=キャラクター」を具体的に設定して、その「基本の型」を解説する、という方法をとってきました。もちろん、「一概に言えない」ということもあると思います。どんなものにも「例外」はありますから。でも、「基本」の型を知らなければ、「例外」も分からないものなのですよね…。なので、講座では、あえて「江戸時代の典型的な人物像・キャラクター」を設定して、その基本形を解説する、というかたちで解説することにしています。



現代のキモノルールが、分かりづらい理由とは?


さらに、ちなみに…なのですが、現代のキモノのルール(特に「格」の問題など)が、私たちにとってどうも分かりづらい(ピンとこない)大きな理由として、「現代のキモノ文化の中に、実は、『昔の身分制に基づいて成立していたキモノルール』が、こっそりと生き残っている」ということが挙げられるのではないか、と私は考えています。

つまり、身分制はなくなりました!(タテマエ的には)とされた時、「『身分制に基づいて秩序づけられていたキモノルール』を、これからどのように継承していけばいいのだろうか?」という、引き継ぎ問題が発生したはず。旧来のキモノルールを「全く無かったこと」にしてしまうのは、キモノ文化そのものの破戒になりますから、それはできない、と。その結果、どのような方策がとられたのかというと、「」、です。つまり、「『身分』じゃマズいなら、『格』と呼べばいいじゃないか!」「『身分制度』じゃマズいから、『格制度』を導入しよう!」という経緯があったのではないか、と。ザックリ言ってしまうと、ですが。

キモノのHowto本をひらくと、当然のごとくサラ〜ッと「格の高い文様の帯」うんぬんかんぬん、と書かれているのをよく目にしますよね? 私はキモノ初心者のとき、これが全くわかりませんでした。そう、これは、一般のファッション誌のように「この帯の模様って、品があってエレガントですよね〜」的なライターの主観的記述では無いのですよ。これはつまり、「格の高い・模様のついた・帯」ということであって、それはイコール、「そもそもは身分の高い人のための・模様のついた・帯」ということを、実は意味しているのです!

そう、「格」を「身分」を読みかえると、着物ワールドがスムーズに理解できるようになる!!!

…と、誰ひとり書いてもいないし言ってもいませんが(笑)、わりと間違っていないのではないか、と自分では思っています。



というわけで、何が言いたいのか? というと(笑)、過去のキモノルールが分かれば、現代のキモノを理解するのにも非常に役に立つ! ということです。もちろん、さまざまな日本文化(歌舞伎、日本舞踊、浮世絵、美人画、江戸文学、日本文学、日本映画など)をより深く理解し、より繊細に味わえるようになります。これは、一生ものの楽しみですよ〜。

そんな、楽しい土曜のお昼タイムを、皆さんと過ごせたら嬉しいです…! ぜひぜひ、お気軽にご参加くださいませ♪




おまけ。

以下は、大好きな英山の浮世絵を使って、吉原の花魁道中について解説しているスライドです(昨年の講座で使用)。このような感じで、ヴィジュアル資料を使って、解説していきます!


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飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3 もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。


その1その2で、飛田新地の遊廓建築「鯛よし百番」について書きました。今回の目的は、大正期の遊廓建築を見ることだったので、飛田についてあまり書きませんでしたが、最後に、飛田新地の歴史についても書いておきたいと思います。


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(上画像は、「通天閣」のある「新世界」界わいの風景。)




飛田新地に行った記


「鯛よし百番」に行くには、普通は、直接タクシーで乗り付けるのが一番安心です。が、私は、「通天閣」のある「新世界」から、徒歩で向かうことにしました。「飛田新地」の最寄り駅である「動物園前」駅あたりまで歩くと、まだ17時台だったのもあって、通勤・通学の人でいっぱい。この「動物園前」駅前から、「鯛よし百番」のある「飛田新地」まで、アーケード商店街(動物園前一番街→動物園前二番街(飛田本通商店街))がえんえんと続いています。徒歩にして10分くらいか。

で、今回私が一番驚いてしまったのが、このアーケード街。凄かった…! 何がって、「昭和時代にタイムスリップしたか?!」と錯覚しそうな風景が展開していくのが! 何の前知識もなかったのでビックリしてしまい、時空を超えてしまったかと思って、ちょっと怖かった(笑)。いや、ほんと、昭和30年代くらいで時が止まってしまったような、まるでポンペイな場所。昼の明るい時間帯にまた行ってみたいと思いましたが、夜は女性だけで行かないほうがいいかも? 別に危ないことがあったわけではないですが、奥に行けば行くほど、シャッター街になっていったり、(西成のドヤ街が近いため)見るからに薄汚れた感じの人が多くなったりするので、少々緊張します。が、昭和レトロな町並みが残る貴重な場所として知る人ぞ知る場所のようで、コチラコチラなどネットにも写真があがっていました。


で、この昭和レトロなアーケード街を抜けると、そこが飛田新地。昔は遊廓街のまわりに、コンクリートの高壁がグルリとめぐらされていたそう(江戸時代の吉原や島原と同じですね)。現在はそんな壁はありませんが、昔は「大門」(おおもん。これも、江戸時代の吉原や島原と同じですね)と呼ばれる出入り口があったそうで、その門柱だけが今も残っています。その大門を抜けると、広い大通りがずっと通っていて、その大通りに沿って、ビルやマンションがあったり、(17時台だったので)営業を始めたのであろう店鋪のピンクの灯りがぼーっと幻想的についていました。「鯛よし百番」は、この大通りの突き当りにあるため、大通りをテクテク歩いていくことに。

ちなみに、この飛田新地は「撮影禁止」です。とは言え、ネットでちょっと検索すれば、多くの写真や動画がアップされているので、私も行く前から「ああ、こんなふうに営業してるのか」ということが分かってました。だけど、ピンクの灯りがぼーっとついたお店の前に、「おばちゃん」と呼ばれる中年女性(江戸時代で言えば「遣り手婆」に当たる)が座っていて、その奥の上がり框のところに、若い女の子が水着のような格好にテンガロンハットで、明るいライトに照らされながらニコニコして外を向いて座っているのを見ると、何とも言えない気持ちに…。男の人ならともかく、女がジロジロ見るのはよろしくないと思うので、遠くからチラッと見えただけですが。

何が一番、ガツンと来たかというと、特に「別世界!」という感じではなく、普通に当然な感じでそこにある、ということ。当然と言えば当然ですが、そこは普通に、淡々とした場所でした(赤線時代までは大繁華街で、人でごった返していたそうですが)。前もって、『さいごの色街 飛田』(井上理津子 新潮文庫)と、『飛田で生きる 遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白』(杉坂圭介 徳間文庫)を読んでいたので、ここで働く人々の背景や事情、さらには、むしろここで働ける子は(最近では)風俗業界ではエリート層、という現実もあるということも知っていたので、一言で「かわいそう」とか「ひどい」とか、そんな簡単な感想ではまとめられず。だけど、「すごいもの見た」とか「女の子かわいかった」とか言うのも違うと思うし。男性はどう思うかは分かりませんが、私は女なので、何と言ってよいのか(どう判断してよいのか)、正直言ってわかりませんでした。


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江戸時代における、遊廓について


ところで、時代は遡って。江戸文化について語るとき、決して避けることができないのが、遊郭文化・遊女文化、です。私も、トークイベントや講座で「吉原とは〜」とか「吉原の花魁のファッションは〜」とか言ってますけど、喜々として言うようなことではないですよね。もちろん、自覚してます。

ただ、江戸時代は、現代とは全く違う価値観のもとに人々は生きていたわけで、そんななか、「遊廓」がひとつのテーマパークのような「特別な遊びの場所」として認められたがために、そこに多くの才能芸能美術文化が結集されることになりました。だから、江戸時代の文化について語るとき、どうしても「遊廓」にすべてが結びついてしまうのですよ…。決して、売春したっていいじゃん!とか、花魁遊女あこがれ〜!みたいに思ってるわけじゃありません(念のため)。

ちなみに、江戸時代、日本各地に、公許の(=幕府が公認した)遊廓がありました。江戸なら「吉原」が公許で、準公許としては「品川」「新宿」「板橋」「千住」の四宿。京都なら「島原」、大坂なら「新町」が、公許です。

一方で、公許以外の歓楽街は、すべて岡場所(違法)です。岡場所は、普段は黙認されてますが、政府の方針によってはイキナリ手入れが入って、お取り潰し、となっても文句が言えませんでした(実際、江戸時代後期に大人気だった「深川(辰巳)」も、天保の改革でイキナリ取り潰しになっています)。



大坂の遊廓の歴史、飛田新地の歴史


話を大坂に限定しますが、江戸時代の大坂では、「新町」が公許の遊廓でした。歌舞伎『廓文章』(通称・吉田屋)で有名な、夕霧太夫が所属していた置屋「扇屋」があったのも、新町です。ちなみに、幕末に、その「扇屋」の経営者の娘と、上方で人気だった歌舞伎役者・3中村翫雀のあいだにできた子が、明治〜昭和初期にかけての大スター役者だった初代・中村雁治郎。さらに、その息子が、大映映画に欠かせない名優!2代目・中村雁治郎。さらに、その子が、現在の坂田藤十郎中村玉緒。…というわけで、玉緒さんや藤十郎さんを見たら、ぜひ「夕霧太夫のいた『扇屋』の経営者の血ぃひいてはる」(あってるのかこの方言?)と思っていただけたらと思います!

こうした公許の「新町」のほかに、江戸時代における大坂の色街(岡場所)としては、「北新地」(『曽根崎心中』『心中天網島』で有名な曽根崎新地ふくむ)、「南地」(宗右衛門町、櫓町、阪町、九郎右衛門町、難波新地)、「堀江」などがありました。そこに、明治2年になってから、「松島新地」が加わります(大阪港開港の外国人対策だったとのこと『さいごの色街 飛田』より)。さらには、明治45年に南地のひとつ難波新地が大火事となったのを契機に、その代替地として、大正7年に「飛田新地」が新たな遊廓地として開発されたのでした(さすがに大正時代にもなると、遊廓建設反対運動が起きますが、強引に開発されたようです)。

遊郭をみる』(筑摩書房)によると、飛田新地の特徴は、まず遊廓地を開発して妓楼を建設し、それを経営者に貸す、「家賃制の妓楼」という新スタイルをとったこと。おそらく、それまでは、妓楼は妓楼主が建設し経営するものだったのでしょう。これ以後、遊廓づくりの一つのモデルになったのだそうです。そのほか、いち早くカフェーやダンスホールなどモダンな施設を併設したことも評判となり、関西いちの遊廓地にまで発展しました。

飛田新地が一番賑わったのは、戦前の昭和初期頃で、最盛期は娼妓3000人以上! 昭和2年には、あの阿部定も飛田新地の高級妓楼「御園楼」にいて、ナンバー1・2の人気娼妓だったとか(『さいごの色街 飛田』P148より)。そして戦中は、空襲からも奇跡的に焼け残り、戦後は(1945年〜)、いわゆる「赤線」になります。溝口健二監督の『赤線地帯』にも描かれている通り、「赤線」とは、「戦後にGHQが公娼制度を廃止したにも関わらず、特定の区域のみに限って警察が認めた売春地域」のこと。しかし、赤線時代もそう長くは続かず、戦後10年ほど経った1956年に「売春防止法」が公布され、1958年に「売春防止法」完全施行。

売春防止法の施行により、日本では管理売春は違法になります。これにより、日本各地の「赤線」は終了し、店鋪も閉店や業種替えを余儀なくされました。私が偏愛している映画『二匹の牝犬』(小川真由美・緑魔子主演)でも、売防法により売春宿が閉店し、風俗嬢たちが散り散り去っていくシーンから映画が始まりますが、おそらく当時は、各地でそんな光景が見られたのでしょう。

ところが。飛田新地は違ったのです。何とか今まで通り生き残るすべはないか、あれこれと模索するのです…! そのようすが、『さいごの色街 飛田』(井上理津子 新潮文庫)に詳しく描かれていて、とても面白かった。で、あれこれ試行錯誤した結果、「シロウトの女の子が『料亭』でアルバイトをして、客とお酒を飲んでるうちに、恋愛感情が生じて関係した」という自由恋愛システムを確立。というわけで、今でも飛田新地にあるお店はぜんぶ「料亭」、なのです。



飛田新地についての具体的なことは、『さいごの色街 飛田』(井上理津子 新潮文庫)によくまとまっていたので、ぜひコチラをお読みください。女性筆者が、2000〜2011年にかけて飛田新地を取材したルポ。とにかく、著者の体当たり取材がすごくて、読んでいてヒヤヒヤハラハラ。「料亭」の経営者にインタビューしたり、「料亭」でおばちゃん(遣り手)として働く人に話を聞いたりするだけでなく、「料亭」の面接に潜入してみたり(中年以降でも働ける店がある)、警察署に直接出向いて「なぜ飛田を取り締まらないんですか?」と聞いてみたり、はたまた、飛田との関係をさぐるべく指定暴力団の事務所(この界隈はヤクザ屋さんの事務所が多い)に突撃取材したり。

そう言えば、やくざやさんと言えば、先日見に行ってものすごく面白かったドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』でも、取材されていた清勇会(大阪の指定暴力団「東組」の二次団体)のイケメン組長が、「新世界」界隈を通り抜けて、女の子が居並ぶ飛田新地を歩く姿が、一瞬ですがカメラにおさめられていました。普通なら、とてもビデオカメラを持ったまま飛田は歩けないでしょうけど、そこらへんは組長の威光があったのかな、などと思ったりしたのでした。(ちなみにこの映画、DVD化は無理とのことなので、ご興味のある方はぜひ劇場へ!)






おまけ。

飛田新地を出てすぐの場所に、イキナリ現れた、派手すぎるイルミネーションの館…

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パチンコ屋か? と思ったら、なんと、ふつーに食料品を売るスーパーマーケット「スーパー玉出」。

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店内も「これでもか!」とばかりにイルミまくり。ここもある意味、(関東者にとっては)大坂の見るべき建築物だと思いました。

大坂、やっぱり、すごいなー。





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■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1
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■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3
  もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。



■ 「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。

飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その2


前記事に引き続き、飛田新地の「鯛よし百番」について。

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2階、各部屋のようす


この日は、私たちのほかにも、予約がたくさん入っていたようで、あちこちの部屋で宴会が行われていました。私が入った部屋の隣では、息子の結婚を祝う親戚たちの宴会をしていたようで、子どもも何人か来ていて、廊下に出てはしゃいだり、私たちの部屋をこっそり覗いたりしてましたね(笑)。すべて個室だし、何人で来ても大丈夫だし、どこでも撮影OKで楽しいし、多くの人に愛用されてるんだな〜と思った次第です。


2階にある部屋もすべて個室。それぞれの部屋に「テーマ」があり、それに合ったモチーフの欄間や細工が施されていました。同じ装飾の部屋は、ひとつとして無い、そうです。


「由良の間」の廊下に面した壁。「由良の間」は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助がテーマで、2階で最も豪華な部屋。組子格子がカッコイイ。

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「オランダの間」の欄間。

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「千代の間」の格子窓。よく見ると、左から、糸、駒、バチ…と、「三味線」のモチーフが彫られています。

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「お染の間」。お染久松のお話をテーマに、土蔵造りを模した壁。

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「紫式部の間」の入口。

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そのほか、さまざまな意匠を凝らした欄間。「潮来の間」や「宮島の間」など、名所をテーマにした部屋が並ぶ。

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2階の廊下。左側は、中庭。

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2階の窓から、中庭をのぞむ。それぞれの部屋の組子が、シルエットになっていて美しい。

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妓楼は、中庭を四角く囲むように建てることが多いようです。石川県金沢の「ひがしの廓」のお茶屋さんも、同じように中庭を囲むようにして建てられていましたね〜。




階段のある空間に、半分だけの鳥居!

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これは、大坂・天満宮の「天神祭」における「船渡御(ふなとぎょ)」を描いた絵だそう。

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1階、各部屋のようす


再び、1階のロビーへ。この奥に、反り橋がかかっているのが見えるでしょうか?

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はい、大坂・住吉大社の反り橋を模した橋、です!

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反り橋の上で、中庭を眺める。

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中庭には、巨大な陽石と陰石がドドンと置かれています。妓楼に陽物の置き物があるのは、昔からの伝統です。

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反り橋を渡ると、ここから先は「桃山殿」。店内で最も豪華な「牡丹」「鳳凰」「紫苑殿」の3部屋の総称。

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宴会が行われていたので、中は拝見できませんでしたが、廊下だけでも見どころ満載。

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壁には、南蛮貿易の図。

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これは、秀吉と北政所の花見の図だそう。

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さらに、玄関入ってすぐ左にある「顔見せの間」。小さな舞台のような造りの、異空間。

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遊廓時代は、ここで女の子たちが「顔見せ」をしたりして、江戸時代のお大尽遊びのマネごとなども行われたのかもしれません。屋根や欄干など、ものすごく凝った造りの小舞台。襖は破けてしまったまま。





こんな写真が飾られていました。木曜ゴールデンドラマ『ああ、愛しき夫婦』。藤純子さん主演で、ここでロケされたようですね。「ぼやき漫才で一世を風靡した人生幸朗と生恵幸子夫婦の泣き笑いを、桂三枝の脚本で綴る」とのこと。

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というわけで、遊廓建築をじっくり堪能。楽しかった! もう一度、外観を拝む。

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提灯の赤い灯、欄間の透かし彫りが、幻想的。

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「鯛よし百番 アルバイト募集」の張り紙が。接客・洗場 900円より、とのこと。

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なんと、イキナリ、豊臣家の「五七の桐」の家紋!

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この一角だけ、石造りの洋館風。

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というわけで、「鯛よし百番」のあちこちを、それこそ舐めるように堪能しました!

そう言えば、ちょうど私たちと同時に、お店を出た団体客(お年を召した男性と女性の集まり)がいたのですが、そのかなかのひとりの女性が「じゃあ、社会見学しながら帰りましょうか〜」「そうしましょ、そうしましょ〜」なんて言いながら、わざわざ女の子たちが並ぶお店のある方向に、ぞろぞろと団体で歩いて行かれました…。お年を召した方々はさすが割りきってるなーと感じた次第です。






ちなみに。『飛田百番 遊廓の残照』(監修:橋爪紳也 写真:上諸尚美 創元社 2004年)という「鯛よし百番」の建築写真集があるのですが、これが非常に素晴らしい! なぜか絶版になってしまっているので、古本屋で見つけたら即買いをオススメします。

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もう少し書きたいことがあるので、その3に続きます〜。




—— 関連記事 ——


■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その2
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3
  もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。


■ 「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。

飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1


去年の2015年12月に、大坂・飛田新地にある「鯛よし百番」に行って来ました!


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以前からずっと行ってみたいと思っていたお店でした。なぜなら、ここは、大正時代に建てられた妓楼建築が、そのまま残されている貴重なお店だから。もちろん、現在は遊女屋ではなく、鍋料理のお店です。誰でも予約すれば入れます。




大坂・飛田新地とは


大坂の方ならもちろん、関西の人なら誰でも知っているのだろうと思いますが、普通、飛田新地(とびたしんち)って言われても「なにそれ?」だと思います。関東者の私も、10年ほど前に『飛田百番 遊廓の残照』(創元社)という「鯛よし百番」の写真集を見るまで、全く知りませんでした。

大坂の飛田新地は、もと遊郭、もと赤線、の風俗街。1958年(昭和33年)に「売春防止法」が施行されて以降、日本では「管理売春」は違法になりました。が、法の抜穴をかいくぐって、各地で風俗街は生き残り、今に至っています。そのうちのひとつが、飛田新地。

ここ飛田新地がほかの風俗街と大きく異る点が、2つ。太平洋戦争での空襲にも奇跡的に焼け残った遊廓の町並みが、ほぼそのまま残されていること。しかも、各店の前に女の子が外を向いて座っていて、客はそれを見て女の子を選べる、というシステムが現在も残っていること(江戸時代の吉原の「張り見世」や、オランダやハンブルグの「飾り窓」のようなシステムかと)。なかなか、現代日本においては、かなり、特殊な地域です。



大正時代の妓楼建築、「鯛よし百番」


飛田新地について細かいことは後述するとして、今回の目的は、飛田新地にある、大正時代の妓楼建築「鯛よし百番」です。


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1918年(大正7年)築と言われていますが、大正末期に建てられたという説もあります(『飛田百番 遊廓の残照』より)。戦後、改装なども行われたらしい。でも、どちらにせよ、大正時代に建てられた「貸座敷」(当時の妓楼の呼び方)で、さらに大坂の空襲にも焼け残った貴重な建築であることは確かで、2000年には「登録有形文化財」にも登録されました。

飛田新地の歴史についても詳しく書かれている『さいごの色街 飛田』(井上理津子 新潮文庫)によると、

「もともとは、いちげんさんは入れない格式のある遊廓だったと聞いています」 と、鯛よし百番社長の木下昌子さんは言う。大門近くに「一番」と呼ばれる店があり、入口に近いほど安く、奥まったところに位置する百番は最高級の楼の一つだったともいわれる。売防法完全施行の1958年(昭和33)に料理屋に変わり、万博の年(1970年)に木下さんの夫が買い取り、夫亡き後、木下さんが経営を継いでいる。(P71)


とのこと。本書の最後に、この木下さんの会社(酒類卸業)が破産したと書いてあったので、現在の経営者は変わっているのかもしれません。

とにかく、売春防止法施行の後に、妓楼ではなく料理屋として再スタートして今に至るわけですね。しかも、建て替えずに。しかも、外装・内装をほとんど変えずに。これって、日本では、相当珍しい奇跡のようなケースではないでしょうか?



入口と日光東照宮陽明門


というわけで、いざ、「鯛よし百番」へ。

唐破風に透かし彫りがゴージャスな入口から、入ります。

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玄関で靴を脱ぐと、お店の人が案内してくれます。

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玄関を抜けると、赤い絨毯のロビー。

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ロビーには、イキナリ、日光東照宮の陽明門

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陽明門の奥には、天女が…。

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天女たちに誘われて、門の中へ…

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絢爛豪華な「日光の間」!

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壁や欄間の細工・彫刻が、ため息もの。

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日光東照宮にある左甚五郎の「眠り猫」のモチーフも(笑)。

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徳川家の「葵の紋」がドカーンと。日光東照宮は徳川家康を祀っている神社ですので…。

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天井には、雲龍図。

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とにかく、ゴージャス!

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唐獅子に鳳凰など、桃山風のモチーフがいっぱい。

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2階、喜多八の間


陽明門の横には、2階へ続く階段が。「三条大橋」に見立てられています。

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三条大橋」とは、(江戸〜京都をつなぐ)「東海道五十三次」の京都の起点。鴨川にかかっている橋です。(ちなみに、「東海道五十三次」の江戸の起点は日本橋)。

日光に、三条大橋、東海道五十三次…と、「日本名所めぐり」な仕掛けがチラホラ。そう、実は、この「鯛よし百番」は、「日本名所めぐり」を体験させてくれる、テーマパーク的建築なのです! 




2階はブルーの絨毯。左右に客室があり、すべて個室。

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左の壁には、富士山と旅人の絵。


今回は右の「喜多八の間」に案内されました! 「島田宿」と書かれた看板が立ってます。

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「東海道 島田の宿」という道標も立っていて、旅気分満載。

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島田」宿は、「東海道五十三次」の真ん中あたりの宿場町(静岡県)。東海道を旅した弥次さん喜多さんにちなんで、「喜多八の間」なのでしょう。



一段高くなった場所に、! 遊廓時代は、寝台だったのかも。

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天井や欄間の透かし彫りが、豪華。

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天井にはめこまれた、「川越人足の肩車で大井川を渡る」ようすを彫り込んだ、贅沢な細工。

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東海道五十三次を行く人は、「島田」宿で、「大井川」を渡る必要がありました。ところが、江戸時代、「大井川」は、橋をかけるのも禁止、船で渡るのも禁止(徳川家康が隠居してた「駿府城」の防衛のため)。そのため、大井川を渡るためには、「川越(かわごし)人足」による輿や肩車で渡るしかありませんでした。そんな「大井川」での川越のようすは、浮世絵なんかでもよく見かけるモチーフです。




船を形どったお座敷で、鍋を食べました。

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寄せ鍋+オードブル+飲み物で、一人5000円未満くらい。

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というわけで、まだ紹介したい写真が倍ほどあるので、その2に続きます〜。





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—— 関連記事 ——


■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その2
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3
  もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。


■ 「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。

仁侠映画について、その3。 博奕と893の歴史について、もしくは修行を愛する日本人論。


前回前々回に引き続き、任侠映画とヤクザと博奕について。


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893の謎


ところで、「やくざ」という呼称自体、賭場で生まれたものだというのを知っていますか? 「893」という数字の組み合わせは、博奕で最も弱くてダメな数字の並び、なのです。そこから、「893=やくざ=世の中の役にたたない者」という呼称が誕生したのだそう。

念のため、「893」の数字について、もう少し詳しく解説しますと。前回の記事でもチラッと触れましたが、明治以降は「手本引き」という博奕が(主に関西で)流行しますが、その他にも、カブ札を使う「オイチョカブ」(近世から)、花札を使う「アトサキ(バッタマキとも)」(明治から)などの博奕がポピュラーに行われていました。細かいルールの相違はありますが、これら(オイチョカブ、アトサキなど)に共通するのは、「札を3枚(もしくは2枚)引いて、その合計の『1の位』が9に近いほど勝ち」というもの。ということは、3枚の合計の『1の位』が0になる組み合わせが最も弱いことになりますよね。つまり、それは、合計が10とか20の場合で、例えば20=8+9+3ですから、「8 9 3」は最もダメな数の並び、ということになるのです。


ヤクザとバクチは、切っても切り離せない関係


しかし、そもそも過ぎる話になってしまいますが、任侠映画には、なぜ必ず博奕シーンが出てくるんだろう?、って思いませんか? 私は素朴にも、思いました。たとえ別事業でメイン収入を得ているような組織でも、賭場を必ず運営するし、祝いの場や手打ち式などのイベントでも、必ず賭場を開くし。なにかというと、賭場、博奕、博打なんですよね…(注:あくまでも過去のやくざ文化の話です)。やくざさんが博奕好きなのはいいけど、なぜ必ずバクチ? ほかにやることあっても良さそうなものなのに? と、ちょっと不思議でした。

確実に言えるのは、江戸時代の昔から、やくざとバクチは切っても切り離せない関係だった、ということです。基本的に、やくざ者は既成のコミュニティからはずれてしまったアウトローですから、生きていくために自力で現金を得なければなりません。そこで手っ取り早いのが、バクチ。つまり、バクチは、「てっとり早くまとまった現金を手に入れる方法」として最もポピュラーだった(そして、他に方法がなかった)、ということなのではないでしょうか。

また、江戸時代から、バクチは表向き禁止されていたため、カタギの者が賭場を運営するということはほぼ無く、賭場は、そのスジの者が運営するものでした。そして、そのマージン(関東ではテラ銭、関西ではカスリ)が、その賭場を運営する組織の収入となっていました。明治以降もこうした「習慣」は不文律として続いており、このような「博徒」をオリジンとする老舗組織は今も存在していて、「博徒系」と呼ばれたりします。

念のため記しておくと、昔の賭場は、おそらく今で言う「ゲームセンター」みたいなものだったのでしょう(昔は娯楽がそうないですから)。賭場に遊びに来る客も、ヤクザ者やプロの博徒(パチプロみたいな)だけでなく、リッチなカタギの人々(旦那衆)もたくさんいて、運営側は「いかに旦那衆に気持よく遊んでもらうか」ということに腐心しつつ、賭場をマネジメントしていたそうです。

そうそう、前回の記事で書いた、藤純子の実父にあたる俊藤浩滋プロデューサーも、戦中に近くの賭場にカタギの客として出入りしたことから、任侠界を垣間見ることになり、戦後、東映で仁侠映画ジャンルを作り上げることになったのです。以下、俊藤浩滋氏の聞き書きから。

博奕場には、電球に真っ黒の頭巾を被せて、いつも三つぐらいの賭場が開かれていた。旦那がするのと、港の人夫のような連中がするのと、中ぐらいのと。博奕は、札を使う「手本引き」と、札のかわりにサイコロを使う「賽(さい)本引き」の二種類で、素人はみな賽本引きのほうをやった。
いまと違うて、博奕は現行犯で、やってるところを捕まらねばよかったから、博奕場にはちゃんと見張り番がいて、警察がやってきたときには盾になって、その隙にお客さんを安全に逃がした。自分らは捕まってもいい、職業だから。けれど、もしお客が警察に挙げられたら、親分の顔が潰れるわけで、昔の博奕打ちの連中はものすごく堅かった。

任侠映画伝』(俊藤浩滋・山根貞男 講談社)より



ちなみに、こうしたある意味で「任侠界の理想」のような世界は、おそらくほんの一部であり、戦後はそれこそ『仁義なき戦い』のごときカオス状態を経て、現行犯以外でも賭博罪で検挙できるようになり、暴対法、暴排条例なども施行され、今に至っています。なので、こうした「任侠界の理想」は、「古き良き時代のファンタジーであり歌舞伎」だと思って、私は楽しんでおりますが(念のため)。


もちろん、現在は、公営の賭場(競馬、競輪、競艇、オートレース)があるし、パチンコも、サッカーくじも、宝くじも、普通にゲームセンターもあるし、というか、もう、その他いろんな娯楽があるわけで。組が運営する昔ながらの本格的手本引きによる盆、というのは既に一般的ではないでしょうね(一部の地域では今も盛んらしい…と聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません)。


日本ならでは? 精神修行としての博奕


それと、もうひとつ。これは、あくまでも私が本や映画などで感じたことですが、(ひと昔前の)彼らやくざ者にとっては、博奕は、伝統芸能というか、伝統文化としての意味合いがあったのではないか、と(たとえば、武士における、剣術のような)。また、彼らにとって、賭場は、金銭を得る場所であると同時に、修行の場でもあったのではないか、と(武士における、剣術道場のような)。

そう言えば、『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間文庫カレッジ)にも、以下のようなシーンがありました。

翌日から、わたしはゴンゾウ部屋に一日中閉じこもったまま、鏡に向かってバクチの練習をはじめていた。(中略)

鏡のまえに正座して、右手を懐へ入れ、懐のなかで札を繰ってみる。鏡を見て練習するのは、自分の癖を矯正するためであり、同時に、片時も寸分の隙をみせない姿勢を保つためでもある。
懐のなかで札を繰るときに右腕が動かないように、左手で右肘を固定させてみる。(中略)

ゴンゾウ部屋でただ一人、わたしは日の暮れるのも忘れて、毎日、鏡に向かって練習に余念がなかった。


これを読んだとき、「わー!日舞と同じだ!」と思いました。肩が、動くんですよ、人間って…。本当に上手な舞踊家さんは、肩をぐーっと落として、肩を動かさないでキープしたまま、いろんなフリを踊るんですが、至難の業。でも、なるべくそんな癖を矯正すべく、鏡に向かって肩を動かさないよう、師匠が特訓してくださっています。

と、閑話休題。それにしても、さすが山口組を巨大組織にまで発展させた、三代目組長。博奕(ここでのバクチは「手本引き」です)の猛特訓。しかも自ら率先して、自己トレーニング。わりとサラッと読み飛ばす部分かもしれませんが、私は「あー、これだな」、と思いました。


そんなわけですが、日本人って、本当にどんなことでも、「〜道」にしてしまいますよね? ここで言う日本的な「道」とは、「修行」と「権威化」とさらに「集金システム」の3要素が内包されたものだと、私は捉えております(良い悪いの問題ではなく、現実として)。

だけど、そのなかでも精神的・肉体的な「修行」の要素が、最も大切であることは、間違いありません。キモノを着るのも(衣紋道、着付道)、字を書くのも(書道)、歌をよむのも(歌道)、お花を活けるのも(華道)、お香も(香道)、お茶を飲むのも(茶道)、ぜんぶ「道」ですものね、日本では(笑)。もう少ししたら、蕎麦打ち道、寿司道、キャラ弁道なんかも出てきそうな…(銀座○○兵衞流家元江戸前寿司、みたいな家元制度になったりして)。なかなか、すごいことだと思いますよ、それって。そう考えたら、博奕道、当然、ありますよね〜。というか、既に、極道とか仁侠道なんて言葉もあったんだった(笑)。

修行大好き、日本人。私がなぜ昔からヤクザ映画・任侠映画に惹かれてしまうのか、自分でも今ひとつよく分からなかったんですが、もしかして、様式美云々、キモノ云々、健さん文太お竜さん云々、ということよりも、ストイックな修行を愛する日本人的な「道」の精神が感じられるから、そこになにか郷愁のようなものを感じてグッときてしまうのかも……。東映任侠映画、「あなたは『日本人的感性』の持ち主か否か?」を試す踏み絵(?)としても、結構、機能しそうな気がしたのでした。






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