先月(1月)、新橋演舞場で猿之助の舞踊『黒塚』に泣き、つい先日は、シネマ歌舞伎で玉様の『阿古屋』に感動し、「ああ。踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と感じる新年。まぁ、年末も充分、「踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と一人でわめいてたんですけど(笑)。
(参照→「踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座」)。
なにか素晴らしいものを見て、心が感動に震えると、この感動を言葉にしたい、誰かにこの感動を伝えたい、と思うものですよね。
だけど、踊りを言葉で語るのは、とても難しい。「素晴らしかったー」「すごかったー」としか言いようがなくて、感動を語りたいという欲求と、それを表現する言葉が私にはないのではという不安が、脳内で闘ってます(笑)。いや、別に「素晴らしかった〜」でいいんですけどもね。
というわけで、踊りについて書く前に、「芸術とは何なのか?」について、一度整理しておきたいなと思い、久しぶりに書きます(長くなりそうな予感…)。
アートとは、なにはともあれ「技術」のことである。
当たり前のことを言うようですが、踊りは、「肉体のアート」です。バレエやジャズダンスのような西洋の踊りにしても、舞や舞踊のような日本の踊りにしても、アートといってさしつかえないはず。
では、アートって、何だろう?
通常、私たちは、アート=artという言葉を、「芸術(美術)」という意味で使用していますよね。だけど、実は、アート=artという言葉には「技術・技法」という意味もあるということを、ご存知でしょうか? と言うか、実はむしろ、そちらのほうがより語源に近いのです。artの語源は、ラテン語のars(アルス)、さらにその語源は、ギリシア語のtechne(テクネー)。つまり、自然に対しての「人工」、そしてそのための「技術やワザ」、というのがそもそもの第一義だったわけです(今だったら、英語のskillとかtechniqueに近いのかもしれませんが)。
そう考えると、アートというものは、「芸術」うんぬんの前に、まずはともかく、「技術」「スキル」「ワザ」ありきだ、と。
どれだけ、その技術を磨いてきたか、どれだけそのスキルの鍛錬を積み重ねてきたか、どれだけそのワザについて試行錯誤してきたか。当たり前のようですが、まず、そこが根底にあってこそ。そうした技術の蓄積や鍛錬が土台にあってこその芸術だ、ということをまず最初に確認しておきたいといと思うのです。
なぜそんな当たり前のことを言うのか? というと、技術レベルでの評価ナシでの、個人的な感想や印象論として「芸術」が語られることが多いような気がするから(もちろん、日常会話レベルならそれでいいのですけども)。また、それほど技術がなくても自己表現=「芸術」「アート」と称していいじゃない、というような流れがあるように思うからです(もちろん、教育や教養やビジネスとしてはそれでいいのですけども)。
でもそれが慣習になってくると、「芸術」と「技術」とは別のものということになり、それがさらに高じると、「芸術」と「技術」は切り離して考えるべき、というべき論にもなりかねない。それはちょっと違うかな、と常々思います。
北斎の作品は、「芸術」なのか?
先ほど、技術の蓄積が土台にあってこその芸術だ、と書きましたが。そうすると、じゃあ、その「芸術」って何? という話にもなりますよね。
芸術とは、「芸術家の自己表現であり、作り手の魂が込められた作品であり、人々を感動させ、人々の価値観をも変えてしまうような創造物」である…というのが現在における「芸術」の説明になるかと思いますが、これは、比較的新しい、近代以降の概念です。
たとえば、今では世界的に偉大なアーティストとして知られている、江戸時代後期に活躍した北斎は、生涯、あくまでも職人絵師として生きたのであって、芸術家として生きたわけではありませんでした。
でも、北斎の人生をたどって見ると、もう現代人の私からしたら「芸術家そのもの」としか言いようがないほど芸術家スピリットの塊です。オモシロ奇人変人なところも、典型的すぎるほど芸術家そのもの。(ホントにオモシロ奇人なので、ぜひ以下の記事をお読みくださいませ。↓)
さらに、北斎の絵を見れば、もう、岡本太郎じゃないけど、「芸術は…爆発だ!」と口走ってしまいそうになるくらい、「芸術そのもの」。つまり、現代に生きている私たちは、北斎に、いわゆる「芸術」を感じざるを得ないわけです。
となると、じゃあ、その、私たちが否応なしに感じてしまう、いわゆる「芸術」の正体って一体何なんだ? と。
ものすごく乱暴な説明であることは承知ですが、私はこう思ってます。
現在、私たちが「芸術」と呼ぶものの本質は、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。
北斎の『神奈川沖浪裏』を見たとき、私たちは何を感じるか?
と、ちょっと論が先回りしすぎました。
たとえば、北斎の有名な『神奈川沖浪裏』を見たとき。私たちの内面には、どのようなことが起こるでしょうか?
ああ、この魂の震え! この感動の炎! 私をこんなに熱くさせる凄まじいエネルギーを持ったこの作品! これこそ、まさに、芸術だ!
…と、素晴らしい作品(それが絵でも文学でも漫画でも映画でも踊りでも歌舞伎でも何でも)に出会うたびに、私はそう思います。割と、しょっちゅう、感動してます(笑)。そして、自分がその芸術によってどれほど心動かされ、自分がどのように何かを感じ、何を考えたのかについて、なにかもう言いたくてたまらなくなります。
もちろん、「この構図は」「この浪の飛沫の表現は」「この富士山が極端に小さく描かれているこの効果は」などなど、北斎の高い技術について語ることもできます。だけど。技術の分析だと、この震えるような感動を、もうぜんぜん、言い表せない。だって、こんなに感動で胸がいっぱいなのに、技術とか構図とかそんなことじゃないんだよね! …それで、ついつい、自分がどう感じたのかということに夢中になって、技術をしっかり見て評価することがなおざりに…ということは、結構、多いのではないでしょうか?
確かに、「芸術」を受けとめて味わうにあたって、「技術」うんぬんは枝葉末節です。「技術」は、「芸術」成立のための絶対条件の土台ではあるけれど、本質ではない。
それはそうなのです。だけど、しかし、それでも、まず最初に確認しておきたいのは、この感動を生み出した「芸術」の土台になっているのは、あくまでも、北斎が一生をかけて異常なまでに執着して磨き上げてきた「高度な技術」である、と。そのことは、絶対に忘れてはいけないと思います。
「なにか」が無ければ、「芸術」ではない!
と書くと、「じゃあ、高度な技術さえあれば、感動できるのか?」「じゃあ、高度なスキルさえあれば、芸術なのか?」と言われるかもしれませんが、もちろん、それは違います。「技術があって上手なのは認めるけど、面白くないのよねぇ、感動がないのよねぇ」ということ、よくありますよね?
先ほど、ちょっと先走って、
「芸術」とは、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。
と書いてしまいましたが。
それほど、受け手の心を震わせるほどの大きな感動を与えるには、「高度な技術・スキル」だけでは、やはり足りないのです!
もちろん、「高度な技術」があることは絶対条件ですが、さらにその上に、プラスアルファである「なにか」が必要になる! そうです、サムシング、ってやつです(英語でもsomethingには、「重要なこと」か「真実」などの意味がありますが)。
「なにか」とは、たとえば、その作品が醸し出す空気・ムードのようなものだったり、抽象的なことだったり、形而上的なことだったり、具体的に明言するのはとても難しいもの。だけど、「確実に感じることができるもの」です。
さらに言えば、それは、個々の作り手によって、全く違うものだったりします。現代的な言い方だと、「個性」としか言いようがないような。それは、一面では、作り手の「クセ」とか「偏り」とか「執着」とか「偏愛」とか「業」とか、そう呼ぶしかないようなものかもしれません。それは、一面では、作り手本人も「やむにやまれぬようなもの」とか「できることなら解放されたいようなもの」なのかもしれません。
でも、そうしたものと接したときに、日常生活とは別の次元で、(自分以外の)人間と魂が共振することがあるし、生きることの本質にふと触れたような気がすることがある。それを私たちは「感動」と呼んだりしているのでしょうけれど、それが「芸術」の肝(キモ)なのではないでしょうか。
「芸術」に奥深さ、深遠さ、神秘性を感じるのだとしたら、この「これとハッキリ具体的に掴むことはできないけれども、それでも確実に感じる、このなにか」の存在があればこそ。
それこそが、「芸術の本質」だと思うのです。
「受け手の感性や解釈」もまた、「芸術」をつくる
「芸術」が成立するには、「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」が必要である。異論はあるかもしれませんが、一応、そうだと仮定して。だけど、これだけでも、まだちょっとだけ、足りない。「芸術」が成立するには、実は、あともうひとつ、とても小さいけれど、でも確かに必要なものがある。
それが、「受け手の感性・解釈」です。
「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」によって創造された作品を受けとめる、受け手の「感性・解釈」。これによって、作品は、「芸術」になったり、「芸術」にならなかったりも、する。
わかりやすい例をあげてみると、現在「文句なしに万人が認める素晴らしい芸術」として価値を認められているものが、長い間、全く評価されずに埋もれていた…という例には、いとまがありません。
すぐに思いつくところでは、たとえば、ヴィヴァルディは生前はとても人気がありましたが、死後100年以上(1700年中期〜1800年代末期くらいまで)、一般からは忘れられていました。『四季(ヴァイオリンコンチェルト集)』なんて、あんなに分かりやすくて楽しい曲、きっと「ポピュラーミュージック」としてしか見なされなかったんだろうなぁ、と勝手に思ってます(笑)。
ちなみに、ヴィヴァルディ再評価のきっかけとなったのは、これもまた、死後100年以上すっかり忘れられていたバッハの再評価がきっかけでした。バッハは音楽専門家には知られていましたが、一般には古くさい作曲家として(音楽にも流行があるので)ほとんど忘れられていたそうです。だけど、1829年にメンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を演奏したのをきっかけに、バッハが再評価され、関連してバロック音楽というジャンルも再評価されていった。
絵画でもそういうことはよくありますよね。たとえば、ファン・ゴッホとかアンリ・ルソー、セザンヌなど、生前は全然評価されなかったのに、死後に芸術としての評価がウナギ登りとなったよい例です。
と、こういう話をしているとキリがないのでやめますが、そうしたエピソードを知るにつけ、「芸術って何だろう?」と、いつも思うのです。作品じたいは全く変わっていないのに、評価は、時代によっても変わるし、人によっても変わってしまう。
作品は作品としてこの世にあるけれども、それを「芸術だ」と判断するには、どうしてもそこに「受け手の感性や解釈」が必要になる。良いとか悪いとかではなく、ただ、「そういうもの」なんだろうなと。
そして、言い方を変えれば、「受け手」もまた、「芸術」をつくる小さな力となり得るのだ、と。
自分には自分なりの「芸術」があってもいい、ただし勉強はしなければならない、という話
もちろん、だからと言って、「芸術」というものの価値を下げたいということではないですし、また、必要以上に「芸術」を持ち上げるつもりもありません。ただ、「そういうもの」だと認識しておくことは、大事なことだと思うのです。
そして、「そういうもの」だと認識しておくと、ちょっと良いことがあると、私は思ってます。そのひとつに、他人の(特に権威のある方々などの)言説を、すこぉしだけ、疑ってみることができるようになる、というのがあります(笑)。
たとえば、歌舞伎のレビューなどで『先代と比べるとお話にならない。不出来。』とバッサリ切り捨てているのを目にして、「私、こないだ見に行って感動したんだけどなぁ。でも、こんなプロの評論家が書いてるんだから、私が間違ってるのかも…」ってこと、ありますよね? あれっ、ないですか? 特に、歌舞伎評論って、ほかのジャンルに比べて、バッサリ切り捨て系が多いのが、ちょっと不思議でして。って、そんなことはまぁ置いておいて(笑)。
とにかく、「芸術」の評価というのは、絶対ということは決してなくて、必ず「受け手個人の感性・解釈」が含まれているものだ、と思うのです。
そう考えると、その人その人それぞれの「芸術」があり得ることにもなりますよね。△△さんには△△さんなりの感性・解釈による「芸術」があるし、◯◯さんには◯◯さんなりの感性・解釈による「芸術」がある、と。だから、自分がそう感じたのなら、そう感じた自分なりの「芸術」がある、と。どちらが良い悪いではなくて、「そういうもの」なのではないか、と思うのです。
なんてことを書くと、「じゃあ、私の感性とやらで、私が感じたまま、好きなように芸術を評価しちゃってもいいのよねー」って話になりかねないので、それは違う、ということも、強く言っておきたいです。
というわけで、実は、話は最初に戻ります。
最初に、芸術は、何はともあれ、「高度な技術・スキル」の蓄積が土台にあってこそ、と書きましたが。
それと同じように、芸術を受けとめ評価する側にも、その技術・スキルを見分け、理解し、判断するための「技術・スキル」が必要なのではないでしょうか? つまり、評価する側も、それなりの勉強が必要だ、と。学ぶ姿勢が大切だ、と。
もちろん、あくまでも、理想です(笑)。実際問題で考えたら、シロウトはプロの方々と同じような修行や勉強なんてなかなかできないし、そこまでやるべきとは言っていません。
でも、受け手にも、そのくらいの謙虚さや真剣さがあってもいいし、そのくらいの「理想」があったっていい。そう、最低でも「理想」を持っているだけでも、違うんじゃないかな、と(希望)。
というわけで、不勉強な自分を擁護するわけではありませんが、「理想」だけは持ち続けつつ、今年もいろいろなところで「感動」したいな! とそう思うのです。