井嶋ナギの日本文化ノート

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「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。


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2014年になりました。遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

新年早々、大阪に一人旅に行ってきました。目的は、「坂東玉三郎 初春特別舞踊公演」in 大阪松竹座、です! 

というわけで、大阪松竹座へ。大正12年(1923年)竣工の、貴重な近代建築。…ですが、実は、現在の大阪松竹座は、古い外観はそのままに新たに再建したもの(1997年再オープン)なんですよね。日本では古い建築を、まるでゴジラよろしく遠慮なく破壊し尽くすことが多いなか、大阪松竹座のような例はホント表彰ものですよねー! こういうところに経営者の「見識」が表れると思いますよホント。


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もともと、大阪松竹座は歌舞伎を上演するための劇場ではなく、外国映画や松竹歌劇団のためのハコだったそう(ありし日の大阪松竹座の姿は、大林組のHPでも見ることができます→コチラ)。大正12年のこけら落としプログラムは、なんと、エルンスト・ルビッチ監督の『ファラオの恋』! 主演はエミール・ヤニングス!(『嘆きの天使』でディートリッヒにメロメロになっちゃったあの教授) み…見たい…。これと同時上映だったのは、野村芳亭(野村芳太郎の父!)監督の『母』。時代を感じます。


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美しい装飾ですよね〜! このエントランス装飾は、テラコッタ製。建築装飾陶器としてのテラコッタは、19世紀終わり頃からアメリカで多く使われるようになったそうで、この大阪松竹座のテラコッタもアメリカからの輸入だとか(フランク・ロイド・ライトの建築もテラコッタを多用していることで有名です →帝国ホテル)。

設計は、大林組の木村得三郎(代表作に、京都の「先斗町歌舞練場」、京都祇園の「弥栄会館」、東銀座の旧「東京劇場」(=現「東劇」)など)。ミラノのスカラ座をモデルにしているそうで、デザイン様式はネオ・ルネサンス様式。

ちなみに、「ネオ・ルネサンス様式(ルネサンス・リバイバル様式)」とは、1800年代以降、ヨーロッパで流行した建築スタイルのこと。簡単に言ってしまえば、ルネサンス時代(1300〜1500年代)の建築スタイルを基本に、いろいろアレンジを加えてみました! な建築スタイルです。アレンジは各自それぞれなので触れないでおくとしても、基本の「ルネサンス様式」の特徴を挙げてみますと、フィレンツェなどでよく見られるような、粗い石積みの壁面、半円アーチ、三角や半円などの窓飾り、トップの軒蛇腹、など。さらに言えば、全体的に規則正しい、直線メインの四角い建物が多いように思います。

そもそも、ルネサンスというものもまた、古代ギリシア・古代ローマのリバイバル運動だったわけで(結局、人間というのは「温故知新」を繰り返すのですねー)。なので、「ネオ・ルネサンス様式」というのは、勢い、古代ギリシア・古代ローマふうの、規則正しさ、堅実さ、気品、正当性、のような「キッチリ感」が特徴になってきます。そんなわけで、ネオ・ルネサンス様式は、公共施設や銀行などのいわゆる「真面目な建築」に使われることが多かったようですよ。




そして、この大阪松竹座のすぐそばを歩いていたら、こんな桃山風の建築がドーンと登場!!! 

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てっぺんの千鳥破風に、連続しまくりの唐破風、直線を強調する欄干。桃山様式×モダニズム! よーく見たら、「新歌舞伎座」と書いてありました。現在閉鎖中で、まもなく破壊されるであろう「放置感」がすごい…。これについては何も知らなかったので、あとで調べてみたら、昭和33年(1958年)に完成した劇場で、平成21年(2009年)に閉鎖。設計は村野藤吾だそう。

この村野藤吾氏、丹下健三などと並ぶ著名な建築家で、例えば、あの日比谷の「日生劇場」も彼の代表作だそう。昨年、玉様の『日本橋』を見に行った時、素晴らしい劇場建築だと思いましたねー(内装も華麗にモダンで、トリノ歌劇場を思い出しました)。あとあと、なんと、「目黒区総合庁舎」も彼の作品だというではないですかー! この目黒区役所はもとは千代田生命保険ビルで、2000年に経営破綻した際、目黒区に売却されたんだそう。2年前、中目黒に住んでいたのですが、この前を通るたびに「なんか、凄いビルだなー!!ベルリンで見た社会主義建築みたい!」といちいち興奮していたほど、凄いインパクトのビルなんですよ。やっぱり、有名建築だったのね。内装もカッコイイらしい(→コチラ)。

でも、戦後のモダニズム一辺倒の時代には、この大阪の「新歌舞伎座」のようなデコラティヴなデザインや、日比谷の「日生劇場」のような古典主義なデザインは、かなり批判されたそうです。やはり、戦後のモダニズムの時代、装飾とか歴史主義とかって、ホントに否定されていたんですねぇ…しみじみ。その結果が、チープで何の面白みもないビルで埋まった日本、ですよ!(怒) この「新歌舞伎座」も保存運動が行われているようですが、どうなるでしょうか。ビルの所有者の「見識」次第ということかもしれません。


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連続した唐破風に、リボンのような羽衣のような棟飾りがカワイイ。


にしても、この「新歌舞伎座」が面白いのは、歌舞伎座という名がついていたものの、歌舞伎は数回しか上演されなかった、ということ。その代わり、人気スターや歌手の「座長芝居」を月ごとに上演する興行スタイルを始めて、大当たり。そんなわけで歌舞伎は上演されぬまま、平成21年(2009年)に閉鎖となり、現在では上本町に新たに建てた「新歌舞伎座」で、引き続き座長公演をメインに興行中だそうです。


……となると、じゃあ、大阪では、そのあいだ、歌舞伎はどうなってたんだろう? と、ふと思うわけですが。実は、その頃の関西歌舞伎は、かなり衰退してしまっていたのです。そんなわけで、ついでに関西歌舞伎について少し。


戦前はもちろん戦後10年間くらいまで、東京とはまた別で、関西(上方)歌舞伎というものが華やかに行われておりました。その当時のメイン劇場は、今はなき「大阪歌舞伎座」(写真はコチラのサイトを参照ください!)。人気役者のブームもあり、その代表が、壽三郎壽海の「双壽時代」(この壽海の息子が、映画スターの市川雷蔵です。養子ですが)。そして、武智鉄二による「武智歌舞伎」もスタートし、そこからスターとして育ったのが、扇雀(現在の坂田藤十郎)と鶴之助(2011年に亡くなった中村富十郎)、その時期が「扇鶴時代」。

ちなみに、武智鉄二(たけちてつじ)と言えば。むかーし、彼が監督した『華魁(おいらん)』(原作は谷崎潤一郎の『人面疽』)という映画を見たことがあるのですが、あまりにあんまりな内容で…。具体的に説明してみますと、えーと、花魁の足と足の間(遠回しに言ってますが)にですね、人面疽ができてしまってですね(ボカシ+チープな合成映像で表現)、でー、その人面疽にはキバのような歯があってですね…、でー、その花魁と床を共にしようとした男性は、当然、ギャー!噛まれたーっ!!! って、「な、何だこれ?」と。ロジャー・コーマン作品かと(笑)。でもたぶん、歌舞伎は凄かったんだと思います!

そんな関西歌舞伎の興隆も、人気役者だけに頼った松竹の方針への反発や、さらに、リーダー的存在だった壽三郎が死去したことで、一気に衰退へ。昭和29年(1954年)、鶴之助(後の富十郎)が松竹を脱退して大騒ぎとなり、その翌年、扇雀(現在の坂田藤十郎)も松竹をやめて宝塚映画に移籍、続いて、鴈治郎(扇雀の父)も松竹をやめて大映に移籍。と、重要なポジションにいた役者たちが、次々と松竹から離れることに。その頃、既に、歌舞伎界でいい役がもらえない役者たちが、歌舞伎に見切りをつけて映画界に身を投じる流れが始まっていて、昭和29年(1954年)に中村錦之助(父は3代目中村時蔵)が美空ひばりの相手役で映画デビューしていたし、同じく、歌舞伎では端役しかもらえないことに憤慨していた市川雷蔵も大映に移っていました。そんな時代だったのです。

でも、そのおかげで、日本映画は素晴らしい遺産に恵まれたと、古い日本映画ファンの私は思います。雷蔵はもちろん、私としては何と言っても、鴈治郎ですよ!!!! 大映映画が大大好きな私としては、特に鴈治郎が出て来ると、もう舌なめずりして見ちゃいますから! 例えば『鍵』での、あのツリ上がった目でネットリ女体を眺める感じとか、『女系家族』での、あの粘っこい大阪弁でこすっからい狸の皮算用する感じとか、「ジジィとしての品格」が半端ない。しかも、中村玉緒の父親ですから!(関係ないけど)

そんなわけで、内輪モメで客も遠のき、おまけに大阪経済も振るわなくなって後援者も減少。それまでメイン会場だった「大阪歌舞伎座」は、3000人も収容できる大規模劇場だったため(今の東京の歌舞伎座だって1900人くらいなのに…巨大すぎ!)維持できなくなり、1958年(昭和33年)に閉館。その小規模バージョン(1800人収容規模)として、この桃山風の御殿のような「新歌舞伎座」をつくったらしいのですが、結局は歌舞伎はほとんどやらないまま閉鎖され、今も大阪・難波の御堂筋ぞいに立ち尽くすのでした。


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あ。もちろん、その後、13代目仁左衛門(今の仁左衛門の父)の努力もあり、孝夫というスターも現れ、鴈治郎の息子が坂田藤十郎という上方の名跡を襲名し、関西歌舞伎はみごと復活して、今に至っておりますよー!(念のため)



って、全く、玉様の踊りについて触れていませんが…。初めての大阪に舞い上がってしまったようです(笑)。実際には、新卒で入った会社の研修?で大阪には来たことがあるはずなのですが、当時の私は「働くとはどういうことか」が全くわかっていなかったため、イヤイヤ行ってイヤイヤそこに居ただけ、でも新幹線での駅弁だけ楽しみ(あとは寝る)、みたいな最悪な社員だったので、何も覚えてません(というか、たぶん記憶から抹消した)。



そんなわけで、大阪松竹座で見た玉様の踊りについては、「玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について」に、続きます〜。





—— 関連記事 ——


■ 当時の歌舞伎役者の映画界への進出について、詳しいサイトは、コチラ

■ 玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について


■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その2
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3
  もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。





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