映画『ダンケルク』を見てきました。とても面白かったので、久しぶりに映画について書きます。
『ダンケルク』は、戦争映画ではなく、パニック映画である
『ダンケルク』(dunkirk)は、第二次世界大戦中にフランスの港町ダンケルクで起きた戦いを描いているため、戦争映画として語られているようですが。だけど、この映画、戦争映画ではなく、パニック映画じゃないでしょうか? 古くは(ヒッチコックの)『鳥』、そして『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』『ジョーズ』『ダイ・ハード』などの系列。この系列に置くと、まさに傑作。70年代パニック映画ブームを、ちょい遅れてTV放映体験している身としては、懐かしい感じがしたくらいです(笑)。
もちろん、監督はインタビューでいろいろなことを語るでしょう(イギリス人にとっての戦争が〜など)。でも、どう見ても、こクリストファー・ノーラン監督、戦争を描きたかったというより、戦争を題材に「恐怖のサスペンス」を描きたかったんじゃないかと。だって、この映画で描かれているのは、最初から最後まで、「恐怖」一色。ひたすら襲いかかってくる恐怖から、どのように逃れるか、もしくは戦うか。究極を言えば、この映画における敵=ドイツ軍が、例えば、火事とか、ハリケーンとか、病原体とか、エイリアンとか、恐竜とか、そういうものでもそんなにおかしくない。
つまり、そのくらいパニック映画としての純度を高めることに集中しているわけで、私はそうした作り手の潔さにこそ、ちょっと感動してしまいました。これは、『シン・ゴジラ』を見たときに、「うわ、日本人もデキるじゃないー!」という喜びにも似て。
つまり、ベタな感動・号泣・恋愛・トラウマ・みたいなものを、不必要にザツに入れないでほしい、ってことなんですよね。勿論、それ(ベタな感動・号泣・恋愛・トラウマ)がメインのテーマなら、それで問題ないのです。ただ、大前提として、映画って2時間しかない。2時間って短いんです。だからアレコレ詰め込むと、肝心のメインテーマをちゃんと描けなくなってしまう(もしこれが10回連続ドラマとかなら、アレもコレも詰め込んでも大丈夫かもしれませんが)。
というわけで、『ダンケルク』に話を戻すと、とにかく、敵からの攻撃をいかに避け、いかに戦いながら、故郷(イギリス)に帰還するか?ということを、臨場感たっぷりに観客に体感させることだけに徹していて、素晴らしかった。
まるで、よけいな装飾や色彩のない、主題だけがくっきり浮き上がるモダニズム建築を見るような、削ぎ落とされたミニマルさが美しい映画でした。
人間ドラマが描かれていない、のか? 問題について
だけど、この映画、どうやら賛否両論らしいですね…? 絶賛される一方で、「人間が描けていない」「人間同士のドラマがない」などの意見もあるとのことで、ビックリしました。え? だってこれ、パニック映画だよ? と。ジョーズ(サメ)がズンズンズンズンという不穏な音とともにやって来て、人間の足を食いちぎりそうだというのに、逃げる動機だの恋愛だのトラウマだの語っていられないでしょ? と(笑)。もしそんなことやったら、せっかくの緊張感が途切れてしまって、台無しです。
まず前提として、パニック映画が描かなければいけないことは、とにかくこれ一つ。つまり、「恐怖が迫ってきた状況で、人はいかに行動し、生き延びようとするのか」、これに尽きます。それに、登場人物の生い立ちや過去やトラウマや親子関係や恋愛とかは、その「行動の背後」に存在する気配だけで充分。なぜなら、その人の性格や個性によって、パニックに対峙したときの行動に差は出ますから、それは人間を描いているのと同じことだから。なにも、「生い立ちの説明」「動機の説明」「トラウマの告白」「愛してる」「泣きわめき」などがないと人間を描いたことにならない、というわけでは絶対にありません。
確かに、パニック映画だとしても、例えば恋愛ドラマをプラスしたりするのは、常套手段としてあるとは思います。例えば、『タイタニック』は、パニック映画と恋愛映画を融合させた成功例ですよね。そうそう、確か一昨年見に行った『ジュラシック・ワールド』も、パニック映画にちょい恋愛がトッピングされていて、「この部分は不要だな」と見てて思いました。でも、そういう「トッピング」があると喜ぶ層も存在するわけで、「チョコチップと、ホイップクリームと、メイプルシロップのトッピングもありますよ」としておいたほうがお客さんが多く来てくれる、とビジネス的に判断するのはよくあることでしょう。
だけど、一方の『ダンケルク』は、そういう「チョコチップと、ホイップクリームと、メイプルシロップのトッピング」は、見事にナシ!(あ、もちろん、「スピットファイア! Mk.Ⅰ、Mk.Ⅴ、うおーー!」とか「英国ボーイズのセーターの着こなし、カワエェ…」とか、そいうのはあると思いますが、それは特殊な受け手が勝手に「ごちそう!ごちそう!」と反応しているだけなので、それは作り手が「トッピング」として用意したわけではありません(笑))
そう言えば、先日、20年ぶりくらいに、フランスの名作映画『穴』(1960年 ジャック・ベッケル監督)をDVDで見たのですが、驚くほど「背景や動機の説明ナシ」で、ひたすら「刑務所から脱獄しようプロジェクト」のようすを描くだけ。でも、ものすごくスリリングで、面白いんですよ!!!
なんでしょう…最近のドラマや映画が「とにかくわかりやすくする」ことを心がけてしまったために、「状況や動機や生い立ちを説明しすぎ」「映画的ドラマ的クリシェに頼りすぎ」になってはいないでしょうか? なにも説明されないなかで、ひたすら登場人物がなにかに一生懸命になっている。その(こちらから見て)謎めいたようすを眺めるだけで、充分スリリングで面白く感じることができると、私は思います(もちろん、うまく作った場合ですが)。
戦争ものにつきものの、愛国ヒロイズム描写について
『ダンケルク』は、もちろん、戦争の不条理さや、当時のイギリス軍やイギリス国民の愛国感情やヒロイズムなど、そうした戦争映画らしいテーマについても描かれています。ただし、とても抑えた描写で、これ見よがしではない。サラッとしてます。
でも、そんなサラッとした描写でも、イギリス人にとっては、自分たちの祖父や曽祖父の世代が実際に体験したこととして見るでしょうから、私たちとは違う感慨もあるだろうなとは思いました。
見た後に知ったのですが、『ダンケルク』には、マイケル・ケイン(大好き♡)が戦闘機スピットファイアの隊長役で「声だけの出演」をしているそうで(ノンクレジットですが)。そして、これもtwitterで知ったのですが、マイケル・ケインの父親は、ダンケルクからの帰還兵だったとか…。
ドイツ軍と闘った冒険話を聞きたくてしょうがなかった少年マイケル・ケインの前に現れたお父さんは、別人のようになっていて、憔悴しきってとても悲しそうだったとか、ダンケルクでの事情を知らなかった少年マイケルは「お父さんはフランスが嫌いなんだろうな」と単純に思っていたとか、いろいろ辛い。
— 井嶋ナギ (@nagi_ijima) 2017年9月19日
これって、私自身にたとえてみたら、「母方祖父が陸軍軍人で台湾に遠征してた」とか、「母方祖母の最初に結婚した夫がすぐに徴兵されて輸送船が爆撃されて死んだ」とか、「父方祖父が満州の奉天で公務員してたけど、その地で妻(私の祖母)が病気で死んだ」とか、「5歳くらいだった父が満州から引き揚げるとき、港で船を興奮して眺めていて親とはぐれて、あやうく中国残留孤児になりかけた」とか、そういうことが描かれた映画があったら、やはり個人的な、日本人としての感慨が沸いてくるだろうな、とは思います。
ただし、そういうこと(愛国精神など)は、そう感じる層がそのように感じればいいだけで(『ダンケルク』だったらイギリス人がそう感じればいいわけで)、そうでない層(日本人含む)は、とにかく「戦争の恐怖」をリアルに体験してくれればいい、と。そんな作り手側のサラッとしたベタつかない感覚が感じられて、とても好感を持ちました。押し付けがましくないというか。善意や愛国の押し付けは、それが正しくても、やはりベタベタしますから。ま、「恐怖」だけは押し付けられましたけど(笑)。ええ、ホント、怖かったです…!
あ、怖かったと言っても、戦争ものにしては珍しく、グロテスク描写、残酷描写、血と肉みたいなものは、一切ナシ。怖いのは、ひたすら「恐怖が迫ってくる心理的ちゅうぶらりん(サスペンス)状態」が100分休みナシに続くゆえ。しかも、音楽が『ジョーズ』みたいな刻んでくる式の不穏音で、さらにそこに時計の針がチッチッチッチッと重なって……あー、心臓に悪い。でも、あくまでも心理的な怖さ、です。
あともう一つ付け加えておくと、戦闘機スピットファイアのシーンは、とても美しく、気持ちがいい! しかもCGナシ! そうした(宮崎駿映画的とも言える)浮遊感、清々しさみたいなものも、恐怖と同時に味わえることも、付け加えておきたいと思います(その部分は、ひたすらトム・ハーディが担当)。
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