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【日本を知るための100冊】002:山崎正和『室町記』 ~乱世を生き抜くための秘訣について。その2

前回の「山崎正和『室町記』 ~乱世を生き抜くための秘訣について。その1」に続いて、『室町記』(山崎正和・著 講談社文芸文庫)です。


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室町時代は、天皇家が二派にわかれ、さらに将軍家や守護大名が入り乱れて戦っていた、乱世・・・と言われてふと疑問に思うのは、「天皇家や、将軍家(足利家)や、守護大名家(斯波家、細川家、畠山家、山名家など)が戦っていたっていうけど・・・、でも室町時代は室町幕府なんだから、とりえあえず足利将軍家が一番エラかったんじゃないの?」ということではないでしょうか。

こういうところ、とても面白いなぁと思うのですが、室町幕府を開いたのはもちろん足利尊氏なのですが、その足利尊氏が将軍であることを「保障」したのは誰か? というと、「天皇家を中心とした朝廷」なのですよね、結局。「将軍」というのは、実は、朝廷から与えられる官職「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」のことで、鎌倉幕府をひらいた源頼朝も、室町幕府をひらいた足利尊氏も、江戸幕府をひらいた徳川家康も、朝廷から「征夷大将軍」という官職をもらって初めて公的に将軍になることができた。

つまり、室町時代においては、天皇を中心とする「朝廷」という権力系と、将軍を中心とする「幕府」という権力系が存在していて、どっちのほうがエライとかハッキリとは明らかにされないまま、それらの異なった権力系がギリギリのところでバランスを保っていた、というわけです。

さらに室町時代には、各地の「守護」や「守護代」という幕府の役職にある地方実力者がめきめきと力を伸ばしてきて、京都で優雅に暮らしていた足利将軍家をも凌ぐ勢いになってくる。将軍にしてみたら、朝廷とのバランスのみならず、地方実力者(守護大名)とのバランスも考えなきゃいけない。つまり、複数の権力系が存在していて、ひとつ間違えば即座に足元をすくわれてしまう。そんな危機と隣り合わせの状況あったわけです。


周りはみんな、敵。そんな戦々恐々とした状態で重要になってくるのが、政治力。特に、武力でねじふせることが難しいシチュエーションの場合に大事なのが、社交力調整力人心掌握力、でした。・・・うわーなんか、急に泥くさい話になってきました(笑)。人身掌握力っていうと、田中角栄が、どんなに下っ端の部下でも誕生日を覚えていてさりげなくプレゼントを渡したとか、どんなに敵対していた人間でも葬式には必ず出席したとか、パパラッチしようと自宅を張っている記者に一升瓶もって行ったとか、そういうことで周囲の人間の心をつかんでいった、っていうエピソードを思い出してしまいます(笑)。

そうした(ある意味で)表層的な人身掌握術ももちろんアリでしょうけれど、室町時代はもっとすごかった。政治術、社交術、人身掌握術が、そのまま「芸術」にまで高められてしまった時代、なのです(注:この時代に「芸術」という概念はありませんでしたけども)。


たとえば、茶の湯。茶の湯と言えば、「わび・さび」の美学。・・・ちょっと話は脱線しますが、「日本文化といえば、わびさび!」となってしまっているのをいろいろなところで見たり聞いたりするにつけ、「それはちょっと短絡的すぎるんじゃないか?」と常々思っておりました。それって、江戸文化で言えば、吉原の花魁が着る絹地に金糸銀糸の総刺繍の「ハデ」な衣装がもてはやされる一方で、深川芸者が着る木綿地に茶色や紺色のジミな縞模様の「いき」な衣装が珍重されるようなもので、「日本にだってハデの美もあればジミの美もある」ってだけの話ですよね。

だけど、ふと考えてみると、「わび・さび」にせよ、「いき」にせよ、「ジミ」方向の美学をここまで突き詰めてきた国っていうのは、もしかして珍しいほうなのかもしれない、とは思うのです。もちろん世界のすべての文化を知っているわけではありませんが、たとえばヨーロッパにおいて「美というのは華麗(ハデ)なもの」というのが共通了解のように思われます。「ジミ」なものの美が意識的に発見されるのは、モダニズム以降なのではないか、と。もちろん、たとえば中国には禅宗に影響を受けた水墨画などもありますし、「ジミ」方向の美学は日本だけの特色では決してないでしょう。とは言え、日本には昔から、「ハデ」方向への嗜好と同じくらいの強度で、「ジミ」方向への嗜好があった。そしてそれは、わりと特殊なことなのかもしれない、とは思うのです。

そもそも、豪華絢爛で華麗な「ハデ」方向への憧れというものは、人間として自然な現象ですよね。国や人種に関係なく、華麗さはいつだって富と権力の象徴となる。・・・ということは、その逆である「ジミ」方向へ走るには、何か「ハデ」とは逆方向に向かうための意識的な運動、たとえば、「ハデ」という権威への反発のようなもの、が必要になってくるのでは? そういう意味で、日本には、反権力的もしくは反主流的な志向性というものが根付いていたのかもしれないなぁと、以前から漠然と思っていました。


そんなことを考えていたところ、本書『室町記』で以下のような一文に出会い、「そうか!」と膝を打ったのです。いわく、

室町時代は「唐物趣味」の時代であったが、同時にそれを消化して、旺盛に和様化して行こうとした時代でもあった。とくに「茶」と「花」という日本の二大文化は、その成立過程そのものが、中国趣味を和様化しようとする努力の跡であった、といってもよい。


そう、茶の湯も花も、初期の頃は、海外=中国の豪華絢爛な輸入品を並べた、ものすごく「ハデ」なものだったそうなのです。当時、海外=中国から輸入されたゴージャスな茶器や花瓶や織物などは、「唐物(からもの)」と呼ばれて非常に珍重され、そんな唐物を集めたサロンである「茶会」を開催することは、富と力の誇示となり、社交力や政治力を持つことを意味したのでした。「バサラ大名」として有名な佐々木道誉(どうよ)などは、豪華絢爛&酒池肉林の大茶会を主催して評判をとり、政治的にも大いに名をあげたのだと言います。

ところが、そんな豪華絢爛だった茶の文化が、いつしか「ジミ」方向へと変化し、「わび・さび」の美学を生んでゆく。かつて豪華絢爛&酒池肉林の大茶会で名をあげた佐々木道誉さえもが、晩年は洗練された落ち着いたテイストを愛でるようになり、世阿弥のよき相談相手にもなった、というから驚きです。この佐々木道誉の動向を見るだけでも、「わび・さび」というのは、ひとつの反動であり、発展であり、流行であり、一様式であって、「日本文化=わび・さび」というわけでは決してない、ということがわかりますよね。


にしても、この「ハデ」から「ジミ」への変化、茶の湯の「豪華絢爛」から「わび・さび」への変化はどうして起こったのか? その理由として、本書『室町記』では以下のように説明されています。理由ひとつめは、海外(中国)文化に対するショナリズムの発生。もうひとつめは、社交や人間関係を目的とするがゆえの洗練、です。

ひとつめの、中国文化に対するナショナリズムの発生、というのはよくわかります。海外文化を崇拝するあまり、その反動で日本文化に目覚める、っていうのはよくある現象。若い頃に思いっきりフランス文化崇拝だった女性が、ある日突然カブキやキモノやワビサビに走る・・というのを見たことがありますが(笑)。私も学生時代にフェリーニやタッソーなど華麗なイタリア文化に憧れてたクチなので、とてもよくわかります。華麗で華やかな海外文化と差をつけようとすれば、勢い、日本文化はいきでしぶいものにならざるを得ない。そんな動きが昔から日本にはあったようなのです。

そして、ふたつめの、社交や人間関係を目的とするがゆえの洗練。これこそが、本書『室町記』における独特の考察といえる部分で、まさに目から鱗でした。いわく、

日本の芸術が根本的に社交の芸術であり、広義のもてなしの技術であったということです。

自分が付き合うような他人は、まず第一にある程度美しい人であることが必要です。もちろん美しいということは、みめかたちが美しいとか、着ているものが美しいとかいうことだけではなくて、その人の立居振舞い、言葉づかい、あるいは生活態度というようなものまでを含めて、私たちの「友人」はある種の好ましさを持っていてくれなければ困るわけです。

しかしその反面、相手があまりにも美しすぎ、あまりにも輝かしいと、私たちはすなおに喜べなくなって、むしろそれを妬むことになりがちです。(P188)

要するに、われわれは他人の自己表現、広い意味での美しい表現を好むのではありますが、これと背中合わせになっている自己顕示というものを憎むのだ、といってよいでしょう。そして実は、こういう人間関係の微妙な矛盾と逆説が、日本の芸術のなかにはいりこんで、その性格を強く決定しているといえるのではないかと、私は考えています。(P190)


つまり、茶の湯、花、能、連歌などの室町期の日本文化は、乱世を生き抜くための政治力、社交力の洗練されたかたちとしての芸術であり、それゆえに、人と人との間の心理の機微に強く拘束されてきたものである、と。

簡単に言ってしまうと、華麗な活動をしているあなたの輝きに、最初は惹かれて集まってきたはずの人たちも、「なんか最近、調子乗ってね?」と徐々に気を悪くするようになる。そんな人間心理を機敏に察知して、ジミを演出してみたり、自虐ネタふってみたり、いろいろな工夫が必要になる、と。ザックリ言うとそういうことですね。イキナリ、話が、ナマナマしいです(笑)。


というわけで、茶の湯、花、能、連歌などにおける、それぞれの具体的な変遷(社交技術としての発展と、人間の心理の機微に左右された過程)については、本書『室町記』 をぜひお読みください。非常に面白いです。


しかし、今の私たちの感覚からしたら、いちいち嫉妬やらナンやらと他人の気持ちを考慮にいれて、「ハデ」とか「ジミ」を調節したりしなきゃいけないとは・・。西洋なら芸術は「ひとりの人間VS神」の孤独な戦いであって、他人が自分をどう思うかなんて関係ないことなのに。まったく日本人ときたらー! と、そう思いたくなりますよね。

だけど、どんなものでもすべてから完全に自由である芸術なんて、あり得ない、とも思うのです。たまたまこの時期の文化芸術に与えられた枠(わく)が、「社交」「政治」「人身掌握」という枠だったというだけであって、こうした芸術はおそらく珍しいことでも何でもないはず。それに、人の生活において、社会の構成要素である他人の占める割合が高いのは自然なことでしょう。そもそもこの時代に「芸術」という概念はなかったし、それに、「芸術」というものの定義でさえ、時代や国や環境によって異なるものです。

そんな(時間と空間における)多様性のなかで、「これだけは真実だ」と言えるものがあるとしたら? それは、一歩踏み間違えれば足元をすくわれかねず、ひとつ間違えば醜悪な様相を呈しかねない乱世において、政治や社交を洗練されたかたちに発展させ、独自の美学にまで高めた人々が、いたこと。そして、そんな危機と隣り合わせの乱世をなんとか生き抜くために、醜悪さをできるだけ排除し、美しく生きようとした人々の、誇り高さのようなもの。

乱世を生き抜くための秘訣とは、どんな状況にあってどんな方法をとろうとも、「誇り高さ」、これをもっているかどうかにかかっているのではないか、と。一見、平和に見えながらも、乱世と隣合わせであるかのように感じる2011年5月に、思った次第です。

 

 

------ 関連書籍 ------

■ 『佐々木道誉 ―南北朝の内乱と「ばさら」の美』 林屋辰三郎 (平凡社ライブラリー)

■ 『足利義満 ―中世王権への挑戦』 佐藤進一 (ちくま学芸文庫)

■ 『中世再考』 網野善彦 (講談社学術文庫)

 




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