先日、わりと真面目な美術番組を見ていたら、「世界三大名画」というフレーズをやたらと連呼していて(ナレーションはキャナメこと要潤氏)、思わず吹き出してしまったのですが、何ですか?「世界三大名画」って(笑)。もちろん、「モナリザ」も「夜警」も「ラス・メニーナス」も大傑作ですけど、「世界三大名画」って一体。と、呆れつつも、「でもどうしても…っていうなら北斎を入れるべきなんじゃないか…北斎ならやはり神奈川沖浪裏か…」などと考えはじめたら止まらなくなってしまいました。
そういえば、1999年に『ライフ』誌がおこなった「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」のなかに唯一選ばれた日本人が、北斎だったそうですね(こういう世界ランキングってみんな好きなんですねー)。まぁ、ライフ誌が認めようが、世界三大に選ばれようが、うっかり世界遺産に指定されようが(選ばれてませんよ!)、北斎は凄い。当然すぎるくらい、凄い。でも、北斎の画業があまりに広大すぎて、その全貌が知られていないんじゃないか? とも思うのです。
かく言う私も、北斎と言えば、「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」が最高で、なんてカッコイイんだろう! と思ってました。でもそれはあくまでも「江戸時代の浮世絵として、凄い!」と思ったんですね。だけど、当時のベストセラー小説だった滝沢馬琴などの「読本(よみほん)」に、北斎が描いた挿し絵(版画)を見た時は、ド肝を抜かれました。「江戸時代だとか浮世絵だとか、そんなものを超越して、凄い!」、と。辻惟雄氏の『奇想の江戸挿絵』(これについての過去記事はコチラ)を見ていただければ一目瞭然なのですが、北斎の挿し絵ときたら、今現在どころか、これからも未来永劫「最先端」であり続けるだろう斬新さ、かっこよさ。横尾忠則も楳図かずおも大友克洋もビックリ! と言えば、その凄さがわかるのではないでしょうか(たぶん)。
で、さらに凄いのは、北斎の面白キャラっぷり。日本初の北斎研究書(明治26年)と言われている『葛飾北斎伝』(飯島虚心・著)という本があるのですが、奇人変人LOVERなら、確実に「北斎ファン」にならざることなし(ほぼ古文ですが)。例えば、生涯に93回も引越ししたとか、ひどい時は1日3回引越したとか、120畳もの巨大な紙に巨大な絵を描くイベントを何度も開催して大評判になったとか、画名を30回も変えたとか、晩年は「画狂老人卍」を名乗ったとか、90歳で死ぬ間際に「あと10年…いや、あと5年生きられたら、本物の画工になれたのに…」と言って死んだとか、キャラ立ちまくりすぎて漫画みたいなエピソード数知れず。もう、ニーチェも埴谷雄高も岡本太郎もビックリ! と言えば、その奇人ぷりがわかるのではないでしょうか(たぶん)。
というわけで。今年の夏、長野県の小布施(おぶせ)に行ってきました! それが北斎とどう関係があるのか、って? 実は、この小布施町は、あの北斎が何度も滞在した場所で、北斎が描いたと言われる天井画のあるお寺や、北斎美術館もあるんですよ。これは行かずしてどうする?
というわけで、まずは、北斎が描いたと言われる天井画があるお寺「岩松院」へ。寺はクローズが早いので、まず始めに行くべし。山を背に緑いっぱいのなかにたたずむ、一見、普通のお寺です。
その本堂の天井を見上げると、大きな鳳凰の天井画が! 畳21畳の大きさで、桧(ひのき)の板に描かれた鳳凰は圧巻。その天井画の「下絵」(北斎・画)がコチラ。↓
(岩松院で購入した絵葉書より)
実はこの天井画、北斎の下絵をもとに別の絵師が描いたのでは? という説もあるようなんです。しかし、その大胆な筆致や、当時では珍しい油絵具の調合などを考えると、北斎以外あり得ないと断言する学者もいます(由良哲次「北斎大鳳凰図 〜北斎小布施諸遺作と高井鴻山の功績」冊子より)。どちらにせよ、「下絵」は北斎の筆である、ということは確実だそう。この下絵を描いたのが、弘化4年(1847)あたり、北斎、数えで88歳。
次に、「北斎館」という美術館へ。ここは、北斎の晩年の肉筆画をメインに所蔵している美術館。浮世絵というと「版画」を思い出すのが一般的かもしれませんが、実は「肉筆画」(直接、紙や絹に絵の具で描いた絵のこと)も浮世絵のうちのひとつ。北斎も、たくさんの肉筆画を描いています。が、さすが北斎、肉筆画だからって変にかしこまったりすることなく、洒脱でユーモラスな絵ばかりで、もの凄く楽しかった…(難点を言えば、この美術館、図録を売ってないのが残念)。
そんな「北斎館」ですが、なかでも必見なのが、小布施の町の祭屋台に北斎が描いた天井画です!
「小布施東町 祭屋台天井画 龍」
「小布施東町 祭屋台天井画 鳳凰」
「小布施上町 祭屋台天井画 男浪」
「小布施上町 祭屋台天井画 女浪」
(以上の画像は、「北斎館」で購入した絵葉書より)
北斎が天井画を描いた祭屋台だなんて。当時の小布施町民、贅沢すぎる…。この祭屋台じたいもゴージャスで一見の価値アリ(→祭屋台の全貌はコチラ)。これらの天井画の制作年ですが、鳳凰と龍の天井画は、北斎の2度目の小布施滞在時で、天保15(1844)年、数えで85歳。男浪と女浪の天井画は、北斎の3度目の小布施滞在時で、弘化2〜3(1845〜1846)年、数えで86〜87歳。
…って、年齢にやたらとこだわるのもどうかと思いますけど、、でもやっぱり、北斎、凄い。80代後半で、この力強い筆致に、旺盛な創作欲。しかも、サラッと小布施滞在…と書きましたが、当時は電車も自動車もありませんから。つまり、江戸から小布施(長野県)まで「徒歩」ですから! 80代後半で! え、江戸時代は「駕籠」があるじゃないかって? 北斎が駕籠に乗って移動するはずありません…何しろ貧乏だもの(当時、駕籠に乗るのはかなり贅沢なことでした)。
もちろん、北斎は生前から画名高く、将軍からお呼びがかかるわ、あちこちの大名から絵の注文があるわで、かなり稼いでいたはずなんですが、お金に全く頓着せず、たび重なる引越し(生涯に93回)もあって、常に貧乏だったそう。『葛飾北斎伝』にもこんな一文が。
かの画図の報酬金など、紙に包みて、おくり来れば、包みの中には、何程あるやをかへりみずして、机辺に投げ出しおき、米商、薪商など来りて、売り掛け金を催促すれば、直に其の包みのままにて、投げ出だし与へける。商人等家に帰りて、包みをあくれば、意外に金の多きことありて、ひそかにこれを納め(中略)金銀をあつかふこと、此の如くなれば、其の日に得る所は多けれども、常に足らざるなり。
拙超訳:
北斎ときたら、絵のギャラが紙に包んで届けられても、包みの中を確認もせず机のあたりに放り投げ、米売りや薪売りが(掛けで買い物をした)代金を取りに来ると、その確認もしていないギャラの包みをそのまま投げ与えてしまう。もちろん、彼らがあとで包みを開けて代金が多いのに気づいても、返しに来るわけがない。いつもそんな感じなので、稼ぎがいくら多くても、常に赤貧である。
…というようなエピソードはたくさんあるんですが、でも何も、北斎はお金に執着しない欲のない清貧の聖人でしたー、と言いたいわけでは全くありません。それどころか、貪欲も貪欲、執着も執着、凄まじいほどの「情熱と執念」の人。それはただ一心に「絵を描きたい」「絵がうまくなりたい」という、その一点だけに自分の持てるエネルギーのすべてを注いだがゆえ、その他の事に関しては考慮する暇もなかった結果の、「お金に頓着しない」に過ぎないのです。
数えで77歳頃の北斎は、出版した『富嶽百景』の奥書に、こんな文を寄せています(『葛飾北斎伝』より。以下、意訳してあります)。
私は6歳からもののカタチを描きうつす癖があり、50歳頃からいろいろな画を描いてきたが、70歳までに描いたものは取るに足らないものばかり。73歳にしてやっと、動物や虫や魚の骨格や、草木について知ることができた。ゆえに、80歳になったらますます精進し、90歳には奥義を極め、100歳になれば人知を超えた妙技を身につけることができるのではないか。さらに100歳を超えれば、私の描くものはあたかも生けるがごとくなるはずだ。願わくば、長寿の神よ、私のこの言葉が妄言でないことをぜひご覧いただきたい。画狂老人卍
恐るべし、生への執着。恐るべし、絵への貪欲。なに? 人間は、年々、年とともに衰える? 逆! 逆! 日々、年々、年とともに激しく、熱く、深く、高く! 年齢を重ねて、精進して、初めて「超人」になれるというものだよ馬鹿めー! …と、そんな声が聞こえてきそうな、情熱溢れる卍爺さん、北斎。カッコよすぎ…。
というわけで、案の定、一回では紹介しきれなかったので、続きは、「【日本を知るための100冊】007:飯島虚心『葛飾北斎伝』 〜北斎の強烈すぎる自負心と、そのエピソードについて。」へ!
北斎えがく、肉筆画のシャケ(鮭)シリーズ(笑)。(「北斎館」で買った絵葉書より)
よく見ると、
「前 北斎為一 改 画狂老人卍」の署名あり。
—— 関連記事 ——
■「【日本を知るための100冊】007:飯島虚心『葛飾北斎伝』 〜北斎の強烈すぎる自負心と、そのエピソードについて。」
■「【日本を知るための100冊】006:高遠弘美『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』 〜年齢を重ねることで到達できる領域について。」
■「【本】『奇想の江戸挿絵』辻惟雄 ~「エッジがきいている」とはこういう事」