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【日本を知るための100冊】006:高遠弘美『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』  〜年齢を重ねることで到達できる領域について。


日本の伝統芸能を知ることで、何か得したことはありますか? という質問をもしされたとしたら、たぶん私はこう答えると思います。それは、

年齢を重ねることによって人は衰えるのではなく、年齢を重ねることによってさらに素晴らしい存在になれる

という価値観を、体感として得られること! …なんて書くと、「また女性誌みたいなキレイごと言って〜」とか「歌舞伎だって踊りだって、若いほうが美しいし体力もあるんじゃ?」と思う方もいるかもしれません。



そんな方にぜひオススメしたいのが、本書『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』(高遠弘美/著 講談社)です。


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竹本住大夫さんは、文楽での浄瑠璃語りの「太夫(たゆう)」として、人間国宝に認定されている方。去年の橋下大阪市長による文楽への補助金凍結問題は記憶に新しいところですが、その直後に、心労がたたって住大夫さんは脳梗塞で倒れ壮絶なリハビリを経て今年の春に舞台復帰されたことをご存知の方も多いかもしれません。今年10月に89歳になられるそうで、この年齢で語られる太夫は史上初なのだとか。

ちなみにですが、先日、初めて文楽を見に行き、初めて住大夫さんの浄瑠璃を聞きました。…って、そのくらいシロウトの私が、文楽を見に行く直前に、この『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』を読み、あまりに面白くて夢中になって読了してしまいました。一見、クロウト向けの本に見えますが、初心者にこそオススメしたいと思ったのです。

なぜかと言いますと、一番の理由は、本書の著者であるフランス文学者の高遠弘美先生が、「いかにして住大夫さんの芸に出会い、どのように住大夫さんの語りを味わい、住大夫さんの芸のどこに感動し、さらに文楽の現在についてどう考えているのか」について、一般論ではなく、あくまでもパーソナルな論として語っているから。そのおかげで、まるで自分のことのようにそれを追体験できる。それは初心者にとって、とってもありがたいことなんですね。

というのも、実はですね、伝統芸能(文楽に限らず歌舞伎や能なども含む)の、「初心者向け」をうたった一般的な概説書やhowto本って、わかりづらいことが多いんですよ…。なぜなら、一般的かつ客観的に記述すればするほど、「誰が何をどのように感じるのか」という一番大切な部分が、抜け落ちてしまうから、です。人は、「感情」がともなっていないなかで、新しい物事を理解することが苦手です。もちろん、そうした一般的な概説書でも、ある程度わかってる人なら過去の体験などで補いつつ読むことができるのですが、初心者であればあるほど、「何をどこでどう感じていいのやら??」となってしまい、見る前から「小難しくて何だかメンドくさい…」という印象になりがち、というジレンマがあるのです。



そんなわけなので、私などは文楽を一度も見に行ったことがないまま、『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』を読みましたが、著者である高遠先生の体験や思考を疑似体験することによって、文楽を味わうためのひとつの頼れる「軸」をおぼろげながらもつかめたように思いました。

そして先日、ついに国立劇場で『伊賀越道中双六(いがごえ どうちゅう すごろく)』「千本松原の段」の、住大夫さんの語りを聞いたのです。実は、2回足を運んだのですが、2回目は涙が止まりませんでした…。圧倒されました…。住大夫さんの語りがどのように凄かったかについては、また改めて書きたいと思いますが、とにかく、それだけの長い時間を積み重ねてきた方にしか出せないであろう深さ、重さ、そして柔らかさ、のようなものに自然に包まれるような、そんな希有な体験をしたのです。



本書『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』には、こんな文章があります。

「一生では足りない、二生欲しい」というほど長い時間の修業を必要とする文楽人形浄瑠璃は、若さだけでは決して到達しえない藝の世界が厳然として存在するということを私たちに示しています。(p99)


藝は深めてこそ輝きを増す、藝は浅薄であってはならない、藝を磨くには時間がかかる時間という元手をかけて藝術はより高次の存在となる(p99)


僭越ながら、本書がほかのあまたある伝統芸能についての本と違うと感じたのは、徹頭徹尾、この「時間」というものへの深い敬意に満ちていたからでした。本書は、まず「序」の第一行目から「老成」という言葉の説明から始まっています。私も日本の伝統芸能に触れるたびに「年齢を重ねることでしか到達できない領域」を体感してきましたが、管見の限りでは「年齢=時間を重ねること」をまず重要な要素として語った芸術論を目にしたことがなかったように思うのです。


もちろん、そうした深い領域は、TV番組や映画や漫画のように「誰でも一回見ただけで、スグわかる」ようなものでは決してありません。でもだからといって、「皆がスグにわからないなら、価値がない」という飛躍は、逆ギレ以外の何ものでもないですよね。そうした受け手側の問題については、本書では以下のように指摘されていました。

藝術にはそれを見る、ないしは享受するのにふさわしい「時」があります。(中略)演者だけではなくて、享受する側の成熟というのは、こと藝術に関しては必要にして欠くべからざるものです。私の場合、住大夫師の至藝を全面的に受け入れるには、五十歳という壁を乗り越えることが必要でした。(p184)


そう、受け手側もやはり、年齢を重ねた「成熟」が必要なのです…。当然と言えば当然なのですが、それが何故か、あまり公けには語られていないような気がしてなりません。もちろんそれは年齢がどうこうという表面的なことではなく、「さまざまな経験や知識の積み重ねと、時間の積み重ねによって、人間の感性というものはどこまでも深く高く成熟していく」という、誰もが必ず老いていく宿命にある私たちにとっては、嬉しい、喜ばしい、福音のようなことだと思うのですが。少なくとも私は、さまざまな日本の伝統芸能に親しむことで、いくらかなりとも、救われているのですから。




文楽しかり、歌舞伎しかり、日本舞踊しかり、邦楽しかり、日本の伝統芸能のさまざまなジャンルで、日々、芸に磨きをかけ、70を過ぎても、80を過ぎても、いや、その年齢に達したからこその削ぎ落とされた無駄のない自然な、だけど深くて凄まじいものを生み出す方々がいらっしゃる。それはもう、言葉ではなかなか説明できないのですが、表面的な美しさだとか上手さだとかそういうものを超えた、ただ体感することで「ああ…凄い…」とコチラも陶然として涙するしかないような、そういう領域が、この世には確かにあるんです。

もちろん、年齢を重ねたからといって、誰もがそんな存在になれるというわけではないでしょう。それは、たゆまぬ努力をしてきた人、情熱を燃やし続けてきた人、謙虚に自分と向き合ってきた人、真剣に時間を積み重ねてきた人だけが、そうした領域に到達できるのだと。そんな壮絶な日々は、誰もが耐えられることではないでしょう。だけど、私たちは、それを感受することならできる。いくらかなりとも真剣に生きていれば、そうした領域を目の当たりにした時に、気づかず通り過ぎるのではなく、理解し、心を震わせ、その体験を心の糧にすることはできるのです。

時間を積み重ねること、年齢を積み重ねること。そうして初めて到達できる領域がある。それは決して、衰えることとは違うし、だからと言って若い時の成長とも少し違う、底知れない、深遠で、玄妙な領域のように思えます。さらに言えば、ひとりの個人であれ、あるひとつの芸術ジャンルであれ、限りある生を生きるしかない人間として、長い時間の積み重なりには恐れのような「敬意」を払わずにはいられません。



最後に、本書で高遠先生が「心を打たれた言葉」として挙げておられる、住大夫さんの素晴らしい言葉を載せておきたいと思います。

「毎日舞台で語っても、同じようにやられへん。六十六年やっても、まだ迷いがある。奥が深すぎます。あの世に行っても稽古せなあかんと思うてる。でも浄瑠璃はええもんでっせ。若い頃は無我夢中やったので、六十歳すぎてようやく分かるようになりました」

  竹本住大夫 「朝日新聞 大阪版」2012年1月6日





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■ 竹本住大夫『文楽のこころを語る』 (文春文庫)
実は、歌舞伎の丸本ものについて知りたくて、こちらの本を以前読んだことがありました。19の演目についての、住大夫さんの芸談です。
(ちなみに、後書きに出てくる「フランス文学者」とは、高遠弘美先生のことだそうです!)

■ 高遠弘美訳・プルースト『失われた時を求めて』(光文社古典新訳文庫)
本書の著者の高遠弘美先生は、明治大学商学部の教授で、現在はプルーストの『失われた時を求めて』の個人全訳に取り組んでいらっしゃいます。現在、3巻まで刊行されていますが、私もその美しくなめらかな訳文の大ファンです! 本当に素晴らしいので、文学好きは必読!





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