引き続き、北斎ネタです。前回の「北斎80歳代の超人ぶりについて。〜長野県小布施にて、北斎の肉筆画を見た記。」でも紹介しましたが、日本で初めての北斎研究書とも言える、飯島虚心『葛飾北斎伝』という本には、北斎の面白エピソードがたくさん! ただ、かなりに古文なので、気軽に「読んでみてー!」と言えないのが残念…。なので、ここでちょっと紹介したいと思います!
例えば、わりと有名かもしれませんが(今東光の小説『北斎秘画』の元ネタにもなっているので)、こんなエピソードがあります。以下。
(注:意訳しております)。
奥州津軽の城主、津軽越中守は、北斎にぜひ屛風画を描いてもらいたいと願い、何度も使者を立てて北斎を招いたが、使者往復すること数回、北斎は応じようとしなかった。
それから10日余りした頃、ひとりの武士がやって来て、「私は津軽家の家臣。我が殿の招きがありながら、北斎先生にお出で戴けないのは、何か理由がございましょう。ときに、これはわずかなれども、まず進呈致します」と言って、金5両(現在で言えば、50万円以上)を差し出した。そして、「ただ今より、共に藩邸にご同行願います。もし先生の絵が我が殿の意にかなえば、必ずや、さらなる報酬がありましょう」と言ったが、やはり、北斎はその場を動かなかった。
するとその藩士、ついに激怒して、「こんなにお頼み申しても聞き入れないか! ならば、先生を斬って、我も死すべし!」と言うのを、その場にいた周囲の人々は、あわてて押しとどめ、北斎に対して「とりあえず行っておあげなさいよ」と説得する。それでも北斎は行こうとせず、それどころか、こんなことをのたまった。
北斎 「さっき受け取った金を返却してからであれば、行ってもよい。明日、使いの者に頼んで、あの金を藩邸にお送り致そう」。
これには、その場にいた皆々あきれ果て、津軽藩士も妙な顔をしたまま帰って行った。
それから数ヶ月後のこと。北斎が突然、招かれてもいないのに津軽藩藩邸に現れ、屏風一双を描いたという。その画は野馬群遊の図で、今なお津軽家にあるそうだ。
シビれますね〜〜、この北斎の「超然孤高」エピソード。「頑固一徹」エピソードとも、「狷介固陋」エピソードとも、言いますが(笑)。
この津軽家とは、弘前藩(俗称:津軽藩)(現・青森県の一部)の藩主を歴任した、十万石の大名の家。「大名」と呼ばれるのは石高一万石以上ですから、十万石はまずまずなところかと。で、この津軽家の殿様が、「ウチに来て屏風に絵を描いてー!」ってお願いしてるのに、北斎は全く聞く耳もたず、さてどうする?! というお話です。
ちなみに、「ん? 北斎は津軽(青森)までわざわざ呼ばれたの?」と思った方のために解説をしますと。江戸時代の各藩主は、自分の領地の家のほかに、江戸にも必ず家を持っていました。そうした江戸での家を「江戸藩邸」と言い、それもたいていは複数持っており、江戸城に近い順・重要度順に、「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」と呼びました。そして、藩主の妻と子どもは必ず江戸藩邸に住まねばならず(要は、徳川幕府による「人質政策」ですね)、藩主は自分の領地と江戸とを1年ごとに住まいを変えねばなりませんでした(これが、いわゆる「参勤交代」)。津軽藩の江戸藩邸は、上屋敷・中屋敷・下屋敷ともに本所(現・墨田区の南部)にあったそうで、本所生まれでその近辺内で引越しを繰り返していた北斎とは、ご近所さんだったようす。
にしても、「もらった金(しかも50万円以上)を返せるなら、絵を描いてやる!」って。どんな落語のオチだよ、と(笑)。だけど、北斎は、身分が高いというだけで高慢な態度をとったり、金でどうにかしようとしたり、っていうことが許せなかったようで…。
それどころか、そもそも北斎自身が、贅沢したり、おごり高ぶったり、威張ったり、エラそうにしたり、格式ばったり、外面だけ取りつくろったり、ということが大嫌いだったみたいなのです。そんな具体例が、以下。
■ 北斎の家の前には、わざわざ「百姓」と書いた名刺が貼られていた。実際、北斎は百姓の子だったが養子にもらわれており、義父は幕府御用達の鏡師、義母は(忠臣蔵で斬られてしまった)吉良上野介の家臣の家柄だった。
■ 北斎の家の壁には、「お辞儀無用」「みやげ無用」と書かれた紙が貼ってあった。
■ 絹ものや流行ものの服など着たことがなく、いつも縞の木綿を着て、その上に袖なしの半天を着ていた。下駄や雪駄などのシャレたものははかず、ワラジか麻裏草履をはいた。「田舎もの」と言われて喜んでいるかのようだった。
■ 9月下旬より4月上旬までは、コタツから離れなかった。どんな人に会う場合でもコタツに入ったまま、絵を描くのもコタツに入ったまま、疲れたらコタツに入ったまま枕を敷いて寝た。
■ 礼儀や儀礼が好きではなく、かつて人に頭を下げたことがなく、知人と会っても「こんにちは」「イヤ」と言うくらいで、「もうすぐ春ですね」だの「寒くなりましたね」だの「お体はいかがですか」だのの決まり文句を言うのも嫌った。また、外出の途中で人とバッタリ会って雑談するということも嫌いだった。
■ 北斎は、酒も飲まなかったし、上等の茶も飲まなかった。また、煙草も吸わなかった。当時の江戸人は、酒を飲まない者を「下戸」と呼びバカにしたので、酒に弱い人もムリして飲もうとするのが普通だった。だから、北斎のように酒を飲まないのは「一珍事」として当時の文化人の笑いものになった。もちろん、煙草もしかり。その代わり、北斎はお菓子が大好きだった(特に、大福もち)。
と、いちいち徹底しすぎている北斎先生。なんだか、漫画みたいなキャラクターです、ここまでくると。こうした北斎の「奇人」とも思われかねない言動について、『葛飾北斎伝』の著者・飯島虚心もこう書いています。
(注:意訳しております)。
おおよそ、人というものは、上流の人々を見て「羨ましい、ああなりたい」と思うもので、それが普通の人情だと思う。しかし、北斎はそれとは逆で、つとめて、下流の人々のようにふるまい、世間に媚びようとする気色など微塵もない。おそらく、北斎の胸中には彼独自の考え方があり、それは動かしがたいものとして存在しているのだろう。
とにかく、さまざまなエピソードから一貫して伝わってくるのは、「強烈すぎる自負心」。これに尽きます。そして、そうした強烈すぎる自負心の源になっているのは、おそらく、「自分の絵描きとしての技術や鍛錬」ではないでしょうか。
生涯、絵のことしか頭になく、若い頃に人気浮世絵師の勝川春章に弟子入りしながら、こっそり狩野派も学んでたのがバレて破門になり、それでも懲りずに堤派に学び、土佐派にも学び、中国画も学び、洋画も学び、人間を描くなら人間の骨格を知らねばならないからと、高名な接骨医にも弟子入りするなど、学び続ける一生。どれもこれも、すべて絵のため。ここまで絵に全人生をかけてきた北斎の「自負」は、それはもう強烈にならざるを得ず、それは、贅沢な衣類を着たり、いい家に住んだり、女をはべらしたり、酒やグルメに凝ったり、威張りまくったり、金持ちぶったり、上流階級ぶってみたり、といったそんな「ケチ」なことでは全く引き合わないほどの、それほどの壮大で強烈な「自負心」だったのではないか、と。そんなことを思いました。
そんなわけで、『葛飾北斎伝』のなかで、私が最も感動的だと思うエピソードを以下に挙げておきます。
露木氏曰く、余北斎翁の門に入り、画法を学びしが、一日阿栄にむかひ、嘆息して曰く、運筆自在ならず、画工とならんを欲するも蓋し能はざるなり。阿栄笑て曰く、我が父幼年より八十有余に至るまで、日々筆を採らざることなし。然るに過ぐる日、猶自腕をくみて、余は実に猫一疋も画くこと能はずとて、落涙し、自其の画の意の如くならざるるを嘆息せり。すべて画のみにあらず、己れ及ばずとて自から棄てんとする時は、即これ其の道の上達する時なりと。翁傍にありて、実に然り実に然るなりといへり。
拙意訳:
北斎の弟子であった露木為一氏に聞いた話だが、当時、露木氏が北斎の娘であるお栄さん(応為という浮世絵師でもあった)に向かって、「私は北斎先生に弟子入りしたけど、筆も思うように動かないし、やっぱ絵描きなんてムリかも…」と愚痴ると、お栄さんは笑ってこう言ったそうだ。「うちのオヤジさんは子どもの時分から80過ぎになるまで、筆を持たない日なんて無かったくらいだろ? なのに、こないだなんか、黙ってひとり腕を組んで、『あたしは猫一匹、満足に描けやしない』と言って泣いたんだからねぇ。でも、これは絵だけじゃなくて何でもそうだと思うが、自分には能力が無いと思ってすべて打っちゃってしまいたくなる時こそ、その道の上達する時なんじゃないかと、そう思うのさ」。すると、そばにいた北斎先生、横から「その通り、その通り」と言ってうなづいていたとのことだ。
読本『釈迦御一代図会』に画いた、北斎の挿し絵。弘化2(1845)年発刊なので、北斎80代半ば頃かと。(辻惟雄氏の『奇想の江戸挿絵』より)