井嶋ナギの日本文化ノート

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玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について。


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私が通っていた幼稚園では、文化祭のようなものがあり、お芝居を披露することになっていました。その年の演目は、『安寿と厨子王』。そう、森鴎外の『山椒大夫』で有名ですよね。もしかして、若い人は知らなかったりするのでしょうか? 

念のため、簡単にあらすじを説明しますと。ある親子(母と娘と息子)が旅の途中で人さらいにさらわれ、母と子がバラバラに。安寿厨子王の姉弟は、丹後国の大金持ち・さんしょう大夫に奴隷として売られ、やがて、安寿は汐汲み、厨子王は芝刈り、と過酷な労働を強いられることに。ある時、意を決した姉の安寿は、弟の厨子王をそこから逃亡させ、自らは海に身を沈めて自殺。その後、逃げおおせた厨子王は佐渡へ渡り、盲目となった母と再会、互いに涙を流すのでした。

って、可哀想すぎる…。幼稚園児に演じさせる話か? 子どもながらに「な、何とかならないんだろうか?!」と、胸が張り裂けそうになったのを覚えてますよ。で、その役の決め方ですが。先生が「安寿をやりたいひとー!」と言うと、ほとんどの女の子が「ハーイハーイ!」と手を挙げた中から、先生がお気に入りの子をご指名。もちろん私もしゃかりになって手を挙げましたが、一瞥もされず(笑)。そうしてどんどん役が決まっていき、ついに私に当たった役は、「汐汲(しおくみ)女」。って、何だそれ? と子ども心に思いつつも、一生懸命演じたのを覚えてます。



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そんな「汐汲(しおくみ)女」と、再び会うことになるとは思いもしませんでした。そう、日本舞踊の「汐汲(しおくみ)」です!

日本舞踊(歌舞伎舞踊)には、「汐汲」という長唄の名曲があり、踊りのなかでも基本中の基本のようなもの。特に、花柳流では、名取試験の時に「汐汲」(女の踊り)と「廓八景」(男の踊り)の2曲が必須なので(注:違う曲での受験方法もあります)、私も「汐汲」はかなり時間をかけてお稽古していただきました。「汐汲」は時間も長いし(20分以上?)、小道具も、汐汲桶や三階傘や、手ぬぐいも使うし、扇子ももちろん使う。私は衣裳をつけたことはありませんが、衣裳もとっても華やかなんです。

そんな華やかな踊りである「汐汲」を、玉三郎&七之助がふたりで踊った「二人汐汲」を、先日、大阪松竹座で見てきました(大阪松竹座については、過去記事「「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。」を御覧ください)。玉様が素晴らしいのはもちろんのこと、七之助が美しかった! 今の若手の女形のなかでは、七之助が一番美しいのでは


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(上記の画像は、年始にNHKで放映していたTVを撮影したものです)


そんなポピュラーな踊りである「汐汲」ですが、私が日本舞踊を習い始めた頃、先輩方の「汐汲」のお稽古を眺めつつ、「なんで汐汲みなんだろう?」「というか、汐汲みって一体何だ?」と思ったものです。調べればすぐにわかりますが、もともと「汐汲」という踊りは、江戸時代後期の歌舞伎役者・3代目坂東三津五郎が、文化8年(1811)に「七枚続き花の姿絵」という七変化のひとつとして踊ったのが始まりだそう。この文化文政時代、一人の役者がさまざまなキャラクターに変身して踊る「変化舞踊(へんげぶよう)」というものが大流行していました。特に変化舞踊を得意としたのが、3代目坂東三津五郎と3代目中村歌右衛門。ライバル同士だった2人は、競って変化舞踊を生み出していたそうです。

というわけで、3代目坂東三津五郎が、7つのキャラクターに次々と変身して踊った「七枚続き花の姿絵」。そのキャラとは、女三の宮(光源氏の妻)、梶原源太(源頼朝の後家人)、汐汲、猿廻し、願人坊主(僧の格好をした大道芸人)、老女、関羽(三国志の登場人物)…の7つ。そのなかのひとつだった「汐汲み女」が、後世にも残り、今に至っているというわけなのですね。

なるほどー! とは思うものの、「なんで汐汲みなんだろう?」は、まだ解決していません。そういえば、汐汲み女っていうのは、要は「海女(あま)」さんのこと。と言っても、現在のように海に潜るのメインというよりも、海で働く人、という意味だったようですが。「汐汲」の歌詞にも、「いかにこの身が海女じゃと言うて(訳:私が海女という低い身分の者だからといって)」という一節がありますが、もしかして、汐汲みって、江戸時代に流行した職業なのか? まさか、江戸時代にも「海女(あま)ちゃん流行」があった?!(って、「あまちゃん」見てませんでしたが笑)……でも確かに、それも間違いではないかも。というのも、さらに昔、海女(あま)をヒロインにした劇がヒットしたことがあったから、です。


その時代はさらにさかのぼって、室町時代。観阿弥世阿弥によって、「松風」という能が作られました。この能のヒロインは、海女の姉妹。「松風」はあまたある能の演目のなかでもヒットとなり、「熊野、松風に、米のめし」(訳:「熊野」と「松風」の演目は、米のご飯と同じくらい飽きることがない)と言われたほど人気だったのだとか。

そんな能「松風」で描かれているお話は、以下のとおりです。平安時代の貴公子・在原行平(『伊勢物語』の在原業平の兄)は、天皇の怒りをかったために、須磨(現・神戸市)の田舎に左遷。都から遠く離れた須磨の海辺で、行平は、汐を汲む海女の美人姉妹・松風&村雨に出会い、さっそく手を出してしまいます(2人とも!)。しかし、彼がそんな身分違いの恋に本気になるはずもなく、サッサと京都に帰国。残された姉妹は亡霊になっても恋情止みがたく、行平が残していった帽子(烏帽子)と上着(狩衣)を身にまとい、永遠に踊り続けるのでした…。

って、こ、コワイ…じゃなかった、切ない…。この能「松風」を原型として、その後、浄瑠璃や草双紙類にも「海女である汐汲み女=切ない恋のヒロイン」というモチーフが受け継がれていき、そしてさらに、江戸時代後期の歌舞伎舞踊のひとつのキャラクターとして「汐汲」が作られた、というわけで。能→浄瑠璃→歌舞伎舞踊と、その時代その時代の芸能に、この悲恋に狂う海女(汐汲み女)が脚色されてきたのですね。


こういう事例を見ると、つくづく、文化というのものは、文脈が非常に大切だな、と思うのです。たとえどんなに素晴らしい名人が踊ったとしても、何ひとつ文脈を共有できていない人が、イキナリ日本舞踊の「汐汲」だけを見たって、半分は凄いと思ったとしても、半分はよくわからない、ということがあり得ます。そしてその挙げ句、「全然面白くない! 現代人にもわかるように努力しろ!」みたいなことを平気で言う人が現れるようになるのですよね…。文化は、それだけで存在しているのではありません。その背後には、見えない文脈が重層的に積み重なっている。伝統文化を味わうには、そうした文脈をある程度は共有する必要があるし、それが不足しているなら、そこを補うために学ぶことがどうしても必要になってくる。そして、それが伝統文化を味わう楽しさのひとつでもあると、そう思うのです。



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両天秤の桶を背負い、腰蓑をつけているのが、海で働く海女のしるしです。上記の画像は、年始にNHKで放映していたTVを撮影したものです)


そんなわけで、「なんで汐汲みなんだろう?」は、一応解決しました。でも、もうひとつの疑問、「というか、汐汲みって一体何だ?」ですが、こちらはまだ解決してません。というわけで、こちらも少し調べてみました。

上記の玉様の画像を見ればわかるとおり、汐汲み女は両天秤の桶を肩に担いでいるのが特徴です。そして、そう、私が幼稚園生の時に『安寿と厨子王』の芝居で「汐汲み女」をやったときも、こういう両天秤の桶を持たされました。そして、そのオリジナルである能の「松風」では、汐汲車という桶を引く荷台のようなものを使うそうです。

要は、「塩」を作るために海水が必要だった、と。一言で言えば、まぁそういうことですが。でも、汲んだ海水をどうしていたんでしょう? 「塩田と近年の製塩の歴史」というページによると、日本の製塩方法は、おおよそ以下のように変遷してきたそうです。

 古代〜平安  「藻塩焼き
 平安鎌倉〜江戸「揚げ浜式塩田
 平安鎌倉〜明治「入浜式塩田
 昭和     「流下式塩田

上記の一覧を見ると、能の室町時代、歌舞伎舞踊の江戸時代は、「揚げ浜式塩田」か「入浜式塩田」で製塩されていたと考えられます。「揚げ浜式塩田」は、人力で海水を汲んで桶で運び、敷きつめた砂の上にまき、乾燥させて塩をつくる方法。一方、「入浜式塩田」は、海の満ち引きを利用して塩田に海水を引き入れるので、人力で海水を運びません。ということは、能の「松風」も、歌舞伎舞踊の「汐汲」も、明らかに「揚げ浜式塩田」のプロセスのひとつかと! 

ついでに言えば、『安寿と厨子王(山椒太夫)』でも、安寿が、丹後国(現・京都府北部)の大金持ち「さんしょう太夫」のもとで、汐汲みに従事させられていたのでした。これも「揚げ浜式塩田」のプロセスだったのでしょう(たぶん)。しかし、「大金持ちのビジネスとして「塩」が出てくるのは、かなり象徴的。なぜなら、日本でも世界でも、「塩」というのは貴重な財源で、「塩」の支配は「経済」の支配につながるものだったから。山椒太夫も、安い労働力を使って、塩ビジネスで相当ブラックに稼いでいたのでしょうね。

ちなみに、森鴎外の『安寿と厨子王(山椒太夫)』のオリジナルは、鎌倉室町時代に発生した芸能「説教節」の演目のひとつ「さんせう太夫」(そのほか、説教節には「小栗判官」や「しんとく丸」など)。その「説教節」が最も流行したのは、江戸時代初期の頃。そして、説教節→浄瑠璃→歌舞伎→文学と、その時代その時代の芸能に脚色されていく流れは、能と同じですよね。



というわけで、「汐汲」の謎がいろいろ解けてきました! え? 汐汲み女の由来はわかったけど、なんでそんな海の労働者である海女が、ゴージャスな簪つけて、ゴージャスな着物を着てるのか、おかしいじゃないか、って? えーと、それは…それは……そのほうが見ていて楽しいから、です! (歌舞伎ってそういうものですよねー。ということで、とりあえずは笑)。



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(玉様&七之助の『二人藤娘』。上記の画像は、年始にNHKで放映していたTVを撮影したものです)


ほとんど玉様&七之助の踊りについて触れていませんが、そんなわけで、彼らの踊る『村松風二人汐汲』『二人藤娘』、本当に素晴らしかったです。あ、あと『於染久松色読販』の七之助による四変化早変わりも玉様のお六も、ホントにステキでした。そして、3月の歌舞伎座で、また玉様&七之助の『二人藤娘』やるらしいですよー! 詳細はコチラ。関東近辺の方で、未見の方はぜひ。「ああ、日本人で良かった…」と心から必ず思えることを、何の権威もない私が保証したいと思います(笑)!





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大阪松竹座のロビーに飾られていた、玉三郎丈直筆の色紙!





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