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江戸時代の身分の流動性について。 〜「豪商の館・田中本家」を訪れて思ったこと。

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最近の学校の教科書では、「士農工商」という言葉を使わないものが増えている、って知ってましたか? ひと昔前は、先生が黒板に、こう、三角形のピラミッド型の図形を書いて、「上からエライ順に、『士・農・工商』、さらにその下に、『えた・非人』です」なんて教えたものです…。が、現在では、それは当時の実態と違う、ということが分かってきたのだとか。

あぁ、やっぱり〜と思いました。なぜなら、私も、江戸文学を読んだり、歌舞伎を見たりするたびに、「『士農工商』に当てはまらない例外が多すぎるなぁ」と思っていたので。例えば、花魁とか女郎とかは? 芸者とか役者とかは? 博徒とかは? さらに江戸の重要キャラ、お坊さんは? あと、お公家さんはどこへ行った? 農民でも作物を町で売れば、それは商人だよね? とかとか。江戸時代の身分って、もちろん「武士」は「官僚・役人」としてシステマティックに存在していたんだろうけど、あとはわりと曖昧で流動的なところもあったのだろう、というのが実感でした。


ちなみに、「士農工商」という言葉についてちょっと調べてみたら、「士農工商」というのは、紀元前にまでさかのぼる中国の古典(『管子』など)で使われている言葉だとか。今で言えば「国民みんな」というニュアンスを表す言葉で、実際に「士農工商」という4つの身分が制定されていたわけではないのだそうです(もちろん、身分社会だったのですが、この4つの区分があったわけではなかった)。ということは、「士農工商」は、単なる四字熟語みたいなものだったのか…。「たとえば、『老若男女』という四字熟語を見て、『老人・若者・男・女という4つの分類を表しているのか…。じゃあ、中年やトランスジェンダーはどうなるんだ…?』とか思わないでしょ!」っていう話のようで。

江戸時代(明治初期も含む)、儒教などの漢籍はエリートの必須科目でしたから(例えば、夏目漱石とか、先日書いた龍村平蔵なども若い時に漢籍の塾に通っています)、日本の古い文献にはそうした漢籍からの引用や言い回しが多いんですよね。それを後世の人が、字ヅラ通りに受けて、「ガチガチな4つの身分制があった!」と思ってしまったのでしょうか…(明治政府になって以降、徳川幕府を否定せねばならない流れがあったので、故意に窮屈な解釈をした可能性もありますが)。



そんなわけで、前置きが長くなりましたが、何が言いたいのかというと、私たちが知ってるつもりになっている「近世の身分」ひとつとっても、実態はもっと複雑で曖昧で、ケースバイケース、例外の積み重なりなのではないか、ということです。



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こんなことを突然書いたのは、前回のエントリー(→『長野須坂「豪商の館・田中本家」に行ってきました! 〜婚礼衣裳としての打掛けについて。』)でも取り上げましたが、江戸時代の豪商「田中本家」に行ってきたのがきっかけです。

お殿様もビックリのお屋敷を所有し、さらに上流武士階級ばりの婚礼衣裳を誂えていた「田中本家」って、江戸時代の身分制度のなかではどのようなポジションだったのだろう? と。前回のエントリーでもちょっと触れましたが、「田中本家」は、江戸時代中期に信州・須坂に創業した豪商なんですが、途中から「士分」の扱いを受けているんですよね。この「田中本家」の当主の代々の歴史を見ていくと、江戸時代の「身分」なるものがかなり流動的だったことがわかり、とても面白いと思いました。というわけで、以下。



「田中本家」の初代は農民の生まれ。須坂の豪商・牧家に奉公して商いを学び、享保18年(1733)この地に家を買い、商人としてスタート。商売の内容は、当地の名産である菜種油や煙草の、江戸への出荷でした。そして商売繁盛ゆえ、12年後には、須坂藩より「御用金」を仰せつかる(=お金のない藩にお金を貸してあげること)までに成長し、「刀御免」(=武士の特権である帯刀を許される)に!

息子の2代目になると、「帯刀」&「苗字」(=これも武士の特権)を許され、さらに「代官の格」(=武士の役職のひとつ)を与えられ、「扶持米」(=武士の給料のひとつ)も与えられ、ついに「士分」(=旗本・御家人に相当)扱いになるのです…!

さらに興味深いのが、3代目の方。この方は、江戸日本橋に不動産をたくさん買ったりして(要はマンションオーナー!)家業を広げ、「士分」となり、名前も「新十郎信厚」から「左治馬信厚」という武士名に改名します。が、江戸後期になってくると、全国的に藩や武士の窮乏が目立つようになり、須坂藩からの「御用金」も返済されないことが続いたようで、文政6年(1823)に「御用金」の要請をお断りしたところ殿様の怒りを買い、苗字帯刀を取り上げられ、それまで殿様から戴いたプレゼント(拝領品)も返せ!と言われ、なんと「平百姓」を仰せ付けられることに…!

資料によると(『豪商の館・田中本家』銀河書房)、それまでも田中本家は、須坂藩になにかとお金を渡してるんですよ〜。江戸浜町にあった上屋敷が火事にあったから畳500枚分として献上とか、御殿の建替えのご祝儀とか、引越し代だとか、若殿様が将軍に謁見するための準備金だとか(←こういう記録が田中本家に残っている!)。それなのに…。須坂藩は1万石余の藩で、キビシかったようですが。窮乏した上司(殿様)の怒りの恐ろしいことよ…(笑)。

ところが、5代目の方がまた盛り返します。「御用金」や「献金」で須坂藩の財政に多大な貢献した結果、苗字帯刀はもちろん、「士分」に復活! 名前も「新十郎」から「主水(もんど)」というステキな武士名に改名。最終的には、家老に次ぐ格の「御用人格」にまでなり、明治維新を迎えたのでした。すごい!



このように田中本家の方々の歴史を見ると、農民 → 商人 → 武士 → 農民 → 武士、というドラマティックな身分の変遷をたどっています。農民も商売を始めれば商人だし、農民でも商人でもお金があれば武士になる道があるし、もちろんそれを失うこともある。何となく、江戸時代では、生まれた家の身分にガチガチに固定されていて可哀想…というイメージがありますが、そういうわけでもなかったようなのです。


要は、規則・ルールのあるところ、同時にたくさんの「例外」が存在する、ということなのではないでしょうか。たとえば、財力のある農民や商人が、貧窮した武士の家に「婿入り」「養子縁組」という形で(多大な持参金とともに)入ることもありました。確か、坂本龍馬の家もそうで、豪商だった祖父が武士の身分を買ったんですよね。そうそう、樋口一葉の父も農民だったけど、頑張ってお金をためて同心株を買い、晴れて武士になれたのに、その数ヶ月後に大政奉還で幕府終了! ということも…(泣)。逆に、家を継げない武家の次男・三男が、豪農や豪商の家に入ることもあったでしょう。

私たちが生きる現代も「新格差社会」とか言われていますが、確かに、「仕事」「結婚」などで格差(身分)を飛び越えられることも、時にはありますよね? もちろん、そんなことは偶然起きることではなく、しっかりした長年のの計画や、時代の流れの後押しなど、さまざまな要因があるとは思いますが…。

江戸時代も、もちろん生まれた環境の制約はあるものの、結局はそれぞれの個人の「動き」によって、身分もある程度は流動的に変化していました。そういう意味での「身分の流動性」の感覚は、もしかして、江戸時代の人々も今の私たちも、そんなに変わらなかったのかもしれない。そんなことを考えさせられたのでした。





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