唐突に始めることにした、「日本を知るための100冊」 (企画意図についてはこちらをご覧ください)。最初の1冊目は、岡本太郎の『日本の伝統』(知恵の森文庫)です。
しょっぱなから私事で恐縮ですが、キモノやら歌舞伎やら江戸文学やら・・・ということばかり書いているせいか、よく「古いもの好き」で「シブいもの好き」の「日本文化一辺倒愛好」で「もともとそういう育ち」だと思われがちです。だけど残念ながら、私は、別に「古いもの好き」でもないし、「シブいもの好き」でもないし、「日本文化一辺倒愛好」でもないし、「もともとそういう育ち」ではありません。もちろん、これは良い悪いの話ではないのです。単にあらがえない宿命としての「自分の立ち位置」を自覚し、その「自分の立ち位置」からものを考え、意見を述べたいと思っているので、まず始めにはっきりさせておきたいと思いました。
というのも、「日本の文化」「日本の伝統」というものに対峙した時、私たち日本人は「自分の立ち位置」というものがゆらぐ、もしくはわからなくなるのを感じたことはないでしょうか? もちろん、特別な環境で育った人はまた別だと思います。でも、たいていの一般の人々にとって、「日本の文化」「日本の伝統」というものは、「今現在生きている自分との関係がよくわからないもの」なのではないか、と思うのです。少なくとも、ごくフツウの環境で育った私にとって、日本文化は「よくわからない不思議なもの」でした。
たとえば歌舞伎、能、寺、日本庭園、書画・・・何でもいいのですが、こうした「日本の文化」「日本の伝統」というものに対して、自分がどのような位置に立って、見たり聞いたり感じたりしていいのか、今ひとつよくわからない。だから、教科書のとおりに「これが幽玄かぁ」と思ってみたり、偉い先生のウケウリで「これこそもののあはれ、よね」と言ってみたり、あるいは「この演目は寛政七年に七代目団十郎が演じて~」と膨大な知識を詰めこんでみたりして、なんとか「日本文化と自分との関係」の不安定さをごまかそうとする。そういうこと、多く見受けられないでしょうか? 「日本の文化」「日本の伝統」は、あまりにも遠くなってしまったがゆえに「価値」を実感しにくく、しかし日本のものであるがゆえに「放棄」することもプライドが許さず、結果的に「権威におまかせする」=「思考停止」状態に陥りやすいものだと、私自身しみじみ思うのです。
そんな試行錯誤を経て、私がたどりついたのは、「「世界の不思議ちゃん」としての日本。もしくは、そこでより良く生きるための新たな視点について。」や、「「日本を知るための100冊」を始めます。」にも書きましたが、「日本の文化をなるべくそのまま理解し、それをあがめ奉(たてまつ)るのではなく、それをさらに現代に生きる私たちの感覚で解釈しなおす」、というやり方でした。
その方法が正しいことを実感として感じたのは、20代半ばからキモノの魅力にはまって、キモノを着るようになってからです。「日本の伝統文化」は、あくまでも「現代に生きる私」のためにある。もちろん、「いや、別に現代より過去のほうが単に好きだから、過去の擬似体験したいだけ」っていう人もいるでしょうし、「別にそこまで現代を意識してるわけじゃないよ、ただ肩の力抜いてラクにほっこり生きたいだけ」っていう人もいるでしょう。でも、私は、あまりそういう方向に興味はありません。私が興味があるのは、「今現在をどう生きるのか」ということ。そのために「日本の文化」をも素材にしてしまうというのは、とても有効な方法だし何より面白いよ! と伝えたくて、拙著『色っぽいキモノ』でもできる限り「今を生きる自分の感覚」からキモノを捉えるようと、試みたつもりでした。
なんていう私事が長くなってしまいましたが、岡本太郎の『日本の伝統』、です。
数年ぶりかに再読した私、上記のような自分の考えが、かなり岡本太郎に影響を受けていたことに気づかされ、驚愕したのでした(笑)。といっても、直接影響受けたというよりも、おそらくカラダのなかににジワジワと染みとおって、完全に血肉になってしまったのでしょう。岡本太郎、恐るべし。というか、それくらいスゴイ本なのです。
何がスゴイって、イチバン最初の「はじめに」の第1行目から、トバしてます。
「近ごろ世の中が奇妙にチンマリと落ちついてきました。」
あはは。しょっぱなから笑ってしまいました。ニーチェの『この人を見よ』のもくじに匹敵する面白スタートぶり。(→参考:「【本】『この人を見よ』フリードリヒ・ニーチェ」)
本書のメインコンテンツは、縄文土器や、光琳の「燕子花(かきつばた)図屏風」や、銀閣寺の庭園の「銀沙灘(ぎんしゃだん)」「向月台(こうげつだい)」などを例にしながら語られる、独自の「日本伝統文化論」。その「論」展開のスリリングさといったら! 岡本太郎と言えば、「芸術は爆発だ!」なんて言って、ちょっとイカれた天然系の奇人アーティストだと思われるかもしれませんが、とんでもない。天然どころじゃないですよ・・・。私は常々、本当に(誰にとっても)面白い文章というものは、情報知識や感性センスが面白いということももちろんあり得ますけど、それよりも「論展開の面白さ」が必要不可欠だと思っています。だけど、「論を展開する」というのは、実は、そうカンタンに誰にでもできることではないのです。ましてや、「面白い論展開」をや。だけど、本書はそういう意味でも一級の面白さです。
本書を通して、岡本太郎が一貫して主張していることは、暗くてしめっぽくてひねこびた骨董鑑定的な「日本伝統文化」なんてクソ食らえ! 生のエネルギーで激しく自然と戦い、それでいて矛盾をかかえた「日本伝統文化」を発見しろ! 骨董鑑定的な「約束ごと、イワク因縁、故事来歴」でもって「日本伝統文化」を鑑賞するなんてナンセンス! 今を生きる己れの眼で正面から対峙し、「ビリビリ伝わってくるもの」を新たにつかみとれ! ということ。
面白かったのが、昭和25年に法隆寺が火事に遭い、壁画が焼失してしまったことに関しての、太郎の文章。
「法隆寺は焼けてけっこう」
「自分が法隆寺になればよいのです」
うわー、、。これ、昭和30年(1955年)の文章ですよ? ラジカルすぎるにもほどがあるというか。ビックリです(そのほか、小林秀雄から自慢の骨董コレクションを見せられて、「気の毒なような、もの悲しい気分」になった話なんかも、結構笑えます笑)。
「自分が法隆寺になればよい」。・・・そんなことを言ってくれる人が、かつていたでしょうか? 本当に人間が寺になれって言ってるんじゃないですよ(笑)。つまり、過去の遺物をあがめ奉(たてまつ)るようなことはやめて、自分で日本の伝統を見出し、自分で新たな価値を作り出せ! と言ってるわけです。本書では実際に、太郎自らが、縄文土器や「燕子花図屏風」などを例にして、新しい日本伝統文化を発見し、新しい価値を創造するプロセスを見せてくれています。
実際、岡本太郎の日本伝統文化への向き合い方は、いくら何百年という歴史を持ったものであろうが、いくら重要文化財級の超貴重なものであろうが、「オレが生きているのは、今現在だ。オレにとって大事なのは、今現在だ。過去をあがめ奉(たてまつ)るために現在をおとしめ抑えつけるなんて、そんなナンセンスなことがあるだろうか? 何のための文化だ? 何のための芸術だ? 文化も芸術も、オレたちが生かし創造してこそ、価値があるのだ!!!」というやり方。一貫して、「現在>過去」「人間>文化遺産」という、当たり前といえば当たり前の考え方に貫かれており、それは胸のすくような気持ちよさです。
そんな太郎の考えが如実にあらわれている言葉を、抜き書きしてみますね。以下。
「伝統はわれわれいっぱん素人のものでなければなりません。特殊な専門家の権威的なおせっかいをすっぱり切りすてるべきです。つまりモーレツに素人であることを決意した人間の手にとりかえさなければならないのです」
「現在、私が生きているということ。ここに息をし、動きまわり、まちがいもし、放言もする。このなま身の人間なしにいかなる古典も伝統もへったくれもありはしない。 過去の遺産がけっこうだといっても、それは私がいまそう思い、今日現在的にその価値を認め、それを生かすからにほかならない。その情熱と、実力によって、過去がささえられるのです。それはむしろひたすらこちらにかかわっていることです」
「伝統は自分にかかっている。おれによって生かしうるんだ、と言いはなち、新しい価値を現在に創りあげる。伝統はそういうものによってのみたくましく継承されるのです。形式ではない。受けつがれるものは生命力であり、その業-因果律です」
「古いものは常に新しい時代に見かえされることによって、つまり、否定的肯定によって価値づけられる。そして伝統になる。従って伝統は過去ではなくて現在のものだ」
「自分の姿を鏡で見るときのように、如実に自分の弱みを見せつけられる。ふとそんな気分がして、われわれはかえっていわゆる日本的なものを逆に嫌悪し、おしのけてさえいます。この事実を自他にごまかしてはいけません」
「(過去は)自分の責任において創造的に見かえすべきモメントなのです。自分の全存在で挑み、新しくひらくものです。過去は自分が創るのです」
それはつまり、主役はあくまでも、現代に生きるワタシであり、キミたちでいいのだ!!! と。そういうことだと、私は理解しています。そう考えると、つい不安定になりがちな「日本伝統文化と自分の関係」も、また別のものに変わってくるのではないでしょうか。
「日本を知るための100冊」企画を始めるにあたって、その「日本の伝統」や「日本の文化」に対する見方や立ち位置を、改めて確認する必要があるのではないかと思い、本書『日本の伝統』を選びました。もちろん、いろいろな立場やいろいろな見方があるのは当然です。でも、研究者や専門家や一部のマニアじゃない限り、日本伝統文化の価値を「絶対のもの」として奉(たてまつ)る必要はないし、それよりも、そこから自分のために何をつかみとり、何を創造することができるか、ということのほうがよほど大切なはずです。そしてそれは別に日本伝統文化に限らず、どんな文化だって、どんなジャンルだって、結局は同じことだと思うのです。
最後に岡本太郎から、一言。
「伝統――それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある」
------ 関連記事 ------
------ 関連テキスト ------
■大阪万博のテーマ館・総合プロデューサーに就任したときの、
岡本太郎のスピーチ。テーマ『人類と進歩と調和』(1970年)。
「はじめにわたしはこの万博のテーマに反対である。
人類と進歩と調和、なんてクソくらえだ。
人類は進歩なんかしていない。
確かに宇宙へ行く科学技術が発達したが
肝心の宇宙を感じる精神が失われてるじゃないか。
それに調和といったって、
日本の常識で言えば、お互いが譲り合うということだろ。
すこしづつ自分を殺して
譲り合うことでなれ合う調和なんて卑しい。」
続きは、サイト「annyfarandnear」へ!
------ 関連書籍 ------
■今春から、順次刊行されている「岡本太郎の宇宙」全5巻シリーズ。
「対極と爆発 岡本太郎の宇宙1」(ちくま学芸文庫)
「太郎誕生 岡本太郎の宇宙2」(ちくま学芸文庫)
「伝統との対決 岡本太郎の宇宙3」(ちくま学芸文庫)
■岡本太郎生誕100年記念として、今年4/15に発売されたばかりの大作品集。絵画、彫刻、写真、ドローイングなど、主要作品約200点収録。
「岡本太郎 爆発大全」(河出書房新社)
■『日本の伝統』の2年前、1954年に出版され大ベストセラーになった本。必読。
「今日の芸術 ―時代を創造するものは誰か」(光文社 知恵の森文庫)
■太郎のアツすぎるエッセイ集。太郎が亡くなる3年前に書き残したもの。
「自分の中に毒を持て 」(青春文庫)
■太郎のアツすぎる芸術論。70年頃、「芸術新潮」で連載した「わが世界美術史」がもとになっている。
「美の呪力」(新潮文庫)
■太郎のピカソ論。初版は昭和28年だが、アツイ。
「青春ピカソ」(新潮文庫)