井嶋ナギの日本文化ノート

井嶋ナギ の日本文化ノート

井嶋ナギ のサイトです

戦争映画が変わりつつあること。 もしくは、『風立ちぬ』『この世界の片隅に』『ダンケルク』に共通するものについて。

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「戦争映画=反戦映画」という刷り込み、ありませんか?


前回、映画『ダンケルク』について書きました。 www.nagi-ijima.com
この、映画『ダンケルク』について、「戦争がちゃんと描かれていない」「人間ドラマがない」と感じる人もいるそうで、それは何故だろう? と考えました。

つまりそれって、「戦争映画とは、こういうものである」というモデルパターンが根深く刷り込まれているゆえ、ではないでしょうか? つまり、「戦争映画=反戦映画という刷り込み」です。

少なくとも、私はそういう「刷り込み」がありました。幼少期から、繰り返し、さまざまな戦争もの(映画、ドラマ、マンガ、小説など)に接してきた結果、「戦争映画」は、戦争反対、戦争の悲劇、命の大切さ…こうしたメッセージを主張したもの、という刷り込みがあったように思うのです。

私にとって、戦争を描いた物語というのは、『火垂るの墓』であり、『ガラスのうさぎ』であり、『黒い雨』であり、『プラトーン』であり、『地獄の黙示録』であるというような、「そういうもの」でした。

ところが、ここ数年、戦争を描くストーリーが変わってきているな、と思い始めたのです。

最初に「あれっ?」と思ったのは、4年前に見に行って本当に感動した、宮崎駿監督の『風立ちぬ』(2013)。設定は戦時下だけど、描かれているのは「飛行機が好きでしょうがない青年が、夢を追い続ける話」です。戦争時代を描いているけれど、全然、反戦映画ではない。

続いて、去年、『この世界の片隅に』(2016)を見たときには、ハッキリ衝撃を受けました。「戦争映画だと思いきや、いわゆる戦争映画ではい」という「新しさ」に。設定は戦争下(しかも広島)だけど、描かれているのは「絵を描くのが好きでしょうがない女の子が、自分なりの幸せを見つけようとする話」です。戦争反対とか命の尊さという主張がテーマではないので、これも、戦争時代を描いているけれど、全然、反戦映画ではない。


歌舞伎の作劇法で、考えてみる


ここで、イキナリですが、歌舞伎の作劇法を利用すると、話が大変わかりやすくなると思うのです。

歌舞伎では、江戸時代中頃から、「世界」と「趣向」という概念でもって、舞台のストーリーを作るようになりました。歌舞伎における「世界」というのは既に存在する設定のなかから選ぶもので、例えば、「忠臣蔵」の世界、「源頼光と四天王」の世界、「蘇我兄弟の仇討ち」の世界、「伊勢物語」の世界、「加賀騒動」の世界、などなど、あらかじめ「観客におなじみの世界」をチョイスできるようになっています。

例えばですが、そのなかから「忠臣蔵の世界」を選んだ場合は、必ず、赤穂藩の浪人がいて、敵討ちのために企んでいて、最後は吉良家に討ち入りする、という流れは「設定」として必ずある。それは、作り手も受け手も、お互いにそれを「お約束」として承知しているわけですね。

その代わり、その「設定」さえふまえておけば、そのなかでの「趣向」は何でもOK。その「設定」さえふまえていれば、やりたい放題、まさにフリーダム。赤穂浪士と関係ない娘や貧乏人が出てきてもいいし、殺人があってもいいし、幽霊が出てきてもいい。というわけで、『東海道四谷怪談』は、実は「忠臣蔵の世界」のなかでいろいろ「趣向」をこらした舞台の傑作なのですが(作:四世鶴屋南北)。

このような歌舞伎の作劇法を利用して考えると、上記のアニメ映画は、以下のようになります。

『風立ちぬ』
世界:太平洋戦争時代
趣向:飛行機が大好きな青年が、(戦争や愛する人との出会いと別れを経験しつつ)飛行機づくりに夢をかける話。

『この世界の片隅に』
世界:太平洋戦戦争時代、広島の呉
趣向:絵を描くのが大好きな女性が、(戦争や人々との出会いや別れを経験しつつ)自分なりの幸せを見つける話。

という分析になります。そういう意味では、この2つの作品はとても似ています。

と、ここでふと、話題沸騰中の新人監督・小林勇貴監督の『孤高の遠吠え』(2015)を思い出しました。パッと見では似ても似つかないのですが(笑)、この作品もとても似ている構造です。

『孤高の遠吠え』
世界:現代、静岡県富士宮市の不良世界
趣向:バイクの好きな青年が、(不良同士の戦争や友達との別れを経験しつつ)バイクを愛し続ける話。

上記の映画はそれぞれ全く違う作風で、それぞれ大好きなんですが、「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」とは別に、「自分だけの世界」を心のなかに持っていて、世間や時代がどんなに威嚇や暴力をしかけてきても、「自分だけの世界は大事に守って大切にする」、ということについて描いている。このことが、今の私たちに切実に訴えかけてくるのだと思うのですね。


時代につぶされることなく、とにかく生き抜いていく物語


と、ちょっと話は脱線しましたが。こうした分析をしてみると、『風立ちぬ』と『この世界の片隅に』は、決して、「戦争によって、家族や恋人たちが引き裂かれ殺される悲しい話」ではない。そして、前回分析したように、『ダンケルク』もまた、決して、「戦争によって、家族や恋人たちが引き裂かれ殺される悲しい話」ではない

「ふーん、それで?」と思うでしょうか? いや、これ、私にはちょっと驚きでした。「戦争時代を描いてるのに…(本質的に)悲しい話にしてない!」という、その一点において。そして、「ああ、第二次世界大戦を描く、そのスタンスや視点が変わりつつあるのかもしれない…」と、そうハッキリ感じたのです。

第二次世界大戦が終了したのは、1945年。言うまでもなく、戦争はとてつもなく強烈な体験だったでしょう。

特に、全国を空襲で焼かれ、原爆まで落とされてしまった日本では、戦後しばらくは、「戦争を描く」ことは「戦争反対・戦争の悲劇をダイレクトに描く」ということとニアイコールだった時期があったのではないか、と。そんな(戦争を語る世界における)怒りと悲しみの時代が、20世紀終わりまで続いたのではないか、と。…仮説ではありますが。

ところで、私の母方の祖父は職業軍人でしたが、24歳のとき、台湾で終戦を向かえたそうです。そして、2011年に90歳で亡くなりました。ということは現在、太平洋戦争を20代で経験しているような人が、そろそろこの世から去りつつある…ということですよね。

そして、良い悪いではなく、そうした時代になってやっと、私たちは、戦争について「悲劇一色」ではない、またべつの見方で戦争を眺め、語ることができるようになった、とも言えるのではないでしょうか?

もちろん、戦争は起こしてはいけないし、戦争は本質的に悲劇的なものだというのは絶対です。だけど、「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」に押しつぶされることなく、「とにかく生き抜いていく物語」があったっていい。いや、あってほしい。これは私の「願望」。

だって、たとえ戦争が起きていなくても、個人ではどうにもしようがない「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」というのは、どんな時代にも必ず存在していて、若者は(いや、大人だって)それに押しつぶされそうになる、ということはいつでも起こっていることだから。


そんな私たちにとって、「時代につぶされることなく、時にはみっともなかったり、時には自分なりの幸せを大切にしながら、強く、たくましく、とにかく生き抜いていく物語」は、辛いときにそっと握りしめたくなる「お守り」のようなもの。荒井由実の『ひこうき雲』を聞きながら、そんなことを考えました。



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映画『ダンケルク』は戦争映画でなくパニック映画である。もしくは、ミニマルな美しさについて。

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映画『ダンケルク』を見てきました。とても面白かったので、久しぶりに映画について書きます。

『ダンケルク』は、戦争映画ではなく、パニック映画である


『ダンケルク』(dunkirk)は、第二次世界大戦中にフランスの港町ダンケルクで起きた戦いを描いているため、戦争映画として語られているようですが。だけど、この映画、戦争映画ではなく、パニック映画じゃないでしょうか? 古くは(ヒッチコックの)『鳥』、そして『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』『ジョーズ』『ダイ・ハード』などの系列。この系列に置くと、まさに傑作。70年代パニック映画ブームを、ちょい遅れてTV放映体験している身としては、懐かしい感じがしたくらいです(笑)。

もちろん、監督はインタビューでいろいろなことを語るでしょう(イギリス人にとっての戦争が〜など)。でも、どう見ても、こクリストファー・ノーラン監督、戦争を描きたかったというより、戦争を題材に「恐怖のサスペンス」を描きたかったんじゃないかと。だって、この映画で描かれているのは、最初から最後まで、「恐怖」一色。ひたすら襲いかかってくる恐怖から、どのように逃れるか、もしくは戦うか。究極を言えば、この映画における敵=ドイツ軍が、例えば、火事とか、ハリケーンとか、病原体とか、エイリアンとか、恐竜とか、そういうものでもそんなにおかしくない。

つまり、そのくらいパニック映画としての純度を高めることに集中しているわけで、私はそうした作り手の潔さにこそ、ちょっと感動してしまいました。これは、『シン・ゴジラ』を見たときに、「うわ、日本人もデキるじゃないー!」という喜びにも似て。

つまり、ベタな感動・号泣・恋愛・トラウマ・みたいなものを、不必要にザツに入れないでほしい、ってことなんですよね。勿論、それ(ベタな感動・号泣・恋愛・トラウマ)がメインのテーマなら、それで問題ないのです。ただ、大前提として、映画って2時間しかない。2時間って短いんです。だからアレコレ詰め込むと、肝心のメインテーマをちゃんと描けなくなってしまう(もしこれが10回連続ドラマとかなら、アレもコレも詰め込んでも大丈夫かもしれませんが)。

というわけで、『ダンケルク』に話を戻すと、とにかく、敵からの攻撃をいかに避け、いかに戦いながら、故郷(イギリス)に帰還するか?ということを、臨場感たっぷりに観客に体感させることだけに徹していて、素晴らしかった。

まるで、よけいな装飾や色彩のない、主題だけがくっきり浮き上がるモダニズム建築を見るような、削ぎ落とされたミニマルさが美しい映画でした。


人間ドラマが描かれていない、のか? 問題について


だけど、この映画、どうやら賛否両論らしいですね…? 絶賛される一方で、「人間が描けていない」「人間同士のドラマがない」などの意見もあるとのことで、ビックリしました。え? だってこれ、パニック映画だよ? と。ジョーズ(サメ)がズンズンズンズンという不穏な音とともにやって来て、人間の足を食いちぎりそうだというのに、逃げる動機だの恋愛だのトラウマだの語っていられないでしょ? と(笑)。もしそんなことやったら、せっかくの緊張感が途切れてしまって、台無しです。

まず前提として、パニック映画が描かなければいけないことは、とにかくこれ一つ。つまり、「恐怖が迫ってきた状況で、人はいかに行動し、生き延びようとするのか」、これに尽きます。それに、登場人物の生い立ちや過去やトラウマや親子関係や恋愛とかは、その「行動の背後」に存在する気配だけで充分。なぜなら、その人の性格や個性によって、パニックに対峙したときの行動に差は出ますから、それは人間を描いているのと同じことだから。なにも、「生い立ちの説明」「動機の説明」「トラウマの告白」「愛してる」「泣きわめき」などがないと人間を描いたことにならない、というわけでは絶対にありません。

確かに、パニック映画だとしても、例えば恋愛ドラマをプラスしたりするのは、常套手段としてあるとは思います。例えば、『タイタニック』は、パニック映画と恋愛映画を融合させた成功例ですよね。そうそう、確か一昨年見に行った『ジュラシック・ワールド』も、パニック映画にちょい恋愛がトッピングされていて、「この部分は不要だな」と見てて思いました。でも、そういう「トッピング」があると喜ぶ層も存在するわけで、「チョコチップと、ホイップクリームと、メイプルシロップのトッピングもありますよ」としておいたほうがお客さんが多く来てくれる、とビジネス的に判断するのはよくあることでしょう。

だけど、一方の『ダンケルク』は、そういう「チョコチップと、ホイップクリームと、メイプルシロップのトッピング」は、見事にナシ!(あ、もちろん、「スピットファイア! Mk.Ⅰ、Mk.Ⅴ、うおーー!」とか「英国ボーイズのセーターの着こなし、カワエェ…」とか、そいうのはあると思いますが、それは特殊な受け手が勝手に「ごちそう!ごちそう!」と反応しているだけなので、それは作り手が「トッピング」として用意したわけではありません(笑))

そう言えば、先日、20年ぶりくらいに、フランスの名作映画(1960年 ジャック・ベッケル監督)をDVDで見たのですが、驚くほど「背景や動機の説明ナシ」で、ひたすら「刑務所から脱獄しようプロジェクト」のようすを描くだけ。でも、ものすごくスリリングで、面白いんですよ!!!

なんでしょう…最近のドラマや映画が「とにかくわかりやすくする」ことを心がけてしまったために、「状況や動機や生い立ちを説明しすぎ」「映画的ドラマ的クリシェに頼りすぎ」になってはいないでしょうか? なにも説明されないなかで、ひたすら登場人物がなにかに一生懸命になっている。その(こちらから見て)謎めいたようすを眺めるだけで、充分スリリングで面白く感じることができると、私は思います(もちろん、うまく作った場合ですが)。


戦争ものにつきものの、愛国ヒロイズム描写について


『ダンケルク』は、もちろん、戦争の不条理さや、当時のイギリス軍やイギリス国民の愛国感情やヒロイズムなど、そうした戦争映画らしいテーマについても描かれています。ただし、とても抑えた描写で、これ見よがしではない。サラッとしてます。

でも、そんなサラッとした描写でも、イギリス人にとっては、自分たちの祖父や曽祖父の世代が実際に体験したこととして見るでしょうから、私たちとは違う感慨もあるだろうなとは思いました。

見た後に知ったのですが、『ダンケルク』には、マイケル・ケイン(大好き♡)が戦闘機スピットファイアの隊長役で「声だけの出演」をしているそうで(ノンクレジットですが)。そして、これもtwitterで知ったのですが、マイケル・ケインの父親は、ダンケルクからの帰還兵だったとか…。


これって、私自身にたとえてみたら、「母方祖父が陸軍軍人で台湾に遠征してた」とか、「母方祖母の最初に結婚した夫がすぐに徴兵されて輸送船が爆撃されて死んだ」とか、「父方祖父が満州の奉天で公務員してたけど、その地で妻(私の祖母)が病気で死んだ」とか、「5歳くらいだった父が満州から引き揚げるとき、港で船を興奮して眺めていて親とはぐれて、あやうく中国残留孤児になりかけた」とか、そういうことが描かれた映画があったら、やはり個人的な、日本人としての感慨が沸いてくるだろうな、とは思います。

ただし、そういうこと(愛国精神など)は、そう感じる層がそのように感じればいいだけで(『ダンケルク』だったらイギリス人がそう感じればいいわけで)、そうでない層(日本人含む)は、とにかく「戦争の恐怖」をリアルに体験してくれればいい、と。そんな作り手側のサラッとしたベタつかない感覚が感じられて、とても好感を持ちました。押し付けがましくないというか。善意や愛国の押し付けは、それが正しくても、やはりベタベタしますから。ま、「恐怖」だけは押し付けられましたけど(笑)。ええ、ホント、怖かったです…!


あ、怖かったと言っても、戦争ものにしては珍しく、グロテスク描写、残酷描写、血と肉みたいなものは、一切ナシ。怖いのは、ひたすら「恐怖が迫ってくる心理的ちゅうぶらりん(サスペンス)状態」が100分休みナシに続くゆえ。しかも、音楽が『ジョーズ』みたいな刻んでくる式の不穏音で、さらにそこに時計の針がチッチッチッチッと重なって……あー、心臓に悪い。でも、あくまでも心理的な怖さ、です。

あともう一つ付け加えておくと、戦闘機スピットファイアのシーンは、とても美しく、気持ちがいい! しかもCGナシ! そうした(宮崎駿映画的とも言える)浮遊感清々しさみたいなものも、恐怖と同時に味わえることも、付け加えておきたいと思います(その部分は、ひたすらトム・ハーディが担当)。



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早稲田大学オープンカレッジ講座「人物像で読み解く江戸キモノファッション文化史 Ⅱ」のお知らせ 〜もしくは、キモノを「実践」と「鑑賞」という2つの側面から捉えることのススメ

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さわやかな日が続く秋こそ、「キモノの季節」ですね。

というわけで、秋のキモノを楽しむのにピッタリ!な講座のお知らせです。春に引き続き、今秋も、早稲田大学オープンカレッジにて講座をおこないます! 春講座の続編ですが、今回からのご参加でも大丈夫な内容になっております。ぜひ皆さま、キモノで(もちろんお洋服でも!)、お気軽にいらっしゃってくださいね。


f:id:nagi0_0:20170911172247j:plain 人物像で読み解く「江戸キモノファッション文化史」Ⅱ
  〜芸者、御殿女中から、江戸の色男、そして近代における変化まで〜


【日程】9/30(土), 10/07(土), 10/21(土), 10/28(土), 11/11(土)
【時間】13:00~14:30(90分)
【場所】中野校キャンパス →MAP
    (JR中央線、JR総武線、メトロ東西線 「中野駅」徒歩10分)

【講義概要】
着物が日常着だった江戸時代、身分や職業、年齢などによって装いに差異・特徴があるのは当然のことでした。
そうした時代の装いの「ルール」や「歴史」について、具体的な「人物像」(花魁、町娘、女房など)を設定し、その人物のライフスタイルを見ていきながら、分かりやすく解説します。
また、浮世絵、歌舞伎、日本舞踊、映画、文学などの諸芸術における「装いの描かれ方」についても、資料を鑑賞しつつ、楽しく理解していく予定です。

【各回の講義予定】
09/30 芸者(1) : 江戸芸者の誕生と歴史、その装いの変遷
10/07 芸者(2) : 『春色梅児誉美』における辰巳芸者の装い ほか
10/21 御殿女中(1) : 武家のエリート女性としての、大奥の女たち
10/28 男性 : 男性の装い : 大名、武士、町人、そして色男
11/11 近代  : 近代における江戸の装いの、その継承と変化 ほか

本講座は春講座の続編ではありますが、今回からの受講でも問題のない内容です。


【受講費】
早稲田大学オープンカレッジ会員の方 14,580円
早稲田大学オープンカレッジ会員ではない方(ビジター) 16,767円

【早稲田大学オープンカレッジ会員について】
・会員の有効期限は、入会年度を含めて4年度間(3月末日まで)
・入会金8,000円(税込)
・入会金6,000円の特例あり(ビジターとして過去に受講された方、早稲田大学オープンカレッジ会員の紹介、早稲田大学卒業生、早稲田大学在学生父母、東京都新宿区・中央区・中野区に在住・在勤の方、ほか)
・会員については、コチラコチラを御覧ください
・会員にならずに、ビジターとしての受講も可能です
・ビジターについては、コチラコチラを御覧ください

【お申込み】Web、Tel、Fax、各校事務所窓口 にて、9/7より受付中!
・お申込み方法については、コチラを御覧ください

★詳細は、コチラ



本講座はどのような内容なのか?


早稲田大学エクステンションセンターでの講座も、今年で4年目になりました。この講座がどのような内容なのかについては、以前の記事「2017年も開催します! 早稲田大学オープンカレッジ講座「人物像で読み解く江戸キモノファッション文化史 Ⅰ」のお知らせ」に書いたことと重複すると思いますが、繰り返し書いておきたいと思います。

長年、講座やトークイベントなどで話していることですが、私は、キモノが日常着だった時代のキモノを知るには、まず「人物像」を設定して理解することが大事だと思っています。というのも、当時は、社会的身分、性別、年齢、職業などによって、「装い」に大きな差があることが当然だった時代だから、です。…今では、身分、性別、年齢、職業で人を選別するなんてもってのほか、ですけれども(笑)。

そんなわけで、私は、当時の代表的な「人物像(キャラクター)」を設定して、そのキャラクターの典型的な「装いのルール」を解説する、という方法をとっております。

また、その「人物像」が、社会的にどのような位置にあり、どのような仕事をし、どのような生活をしていたか? という「歴史」と「ライフスタイル」も理解することで、より彼らの「装い」が実感できると考えています。ですので、キモノ以外の説明(その職業の歴史的推移や内実など)も、詳しくお話するようにしています。

そして、さらには、ここが実は一番大事だと私は思っているのですが、そうした「人物像」や「装い」が、諸芸術文化(浮世絵、歌舞伎、文学、映画など)においてどのように描かれてきたか? ということをしっかり見ていきたいのです。キモノは何も「自分が着る」だけではなく、「歴史」であり「文化」でもあり、「装い」を手がかりにさまざまな芸術文化を読み解けるようになるというのが、私が個人的な理想でもあるので…。というわけで、さまざまなヴィジュアルや資料を使って、その「描かれ方・現われ方」といった文化史的な側面についても、楽しく味わえるようにしたいと思っています。

実際の教室のようすはどんな感じなのかな? という方は、2014年の講座のレポート記事を、ぜひご覧くださいませ。
www.nagi-ijima.com


キモノを「実践」と「鑑賞」という2つの側面から捉えることのススメ


ところで、先ほど、以下のように書きました。

キモノは何も「自分が着る」だけではなく、「歴史」であり「文化」でもあり、「装い」を手がかりにさまざまな芸術文化を読み解けるようになるというのが、私が個人的な理想


と。結局のところ、「実践(自分がキモノを着る)」と、「鑑賞(キモノを見て味わって読み解く)」も、どちらも高度に可能になることが理想だと、私は思うのです。

そうなのです。キモノ、というと、すぐに「実践」面ばかり言われることに、私は少々不満を感じています(笑)。「実践」も「鑑賞」もどちらも、とても大事なことだと思うからです。

キモノの「実践」については、今はとても恵まれた状況にあります。ネットでのサイトや、本や雑誌だけでも膨大な数になりますし、着付けの教室や着付けの先生も、カジュアルなキモノ屋さんもたくさんある。キモノの実践については、ここ10年くらいで、大変に充実した状況になりました。私が学生の頃は、ホントに何の情報もありませんでしたから(なにせネットがなかったので)。

だけど、その一方で、キモノの「鑑賞」については、まだまだあまり情報がない、と感じます。

まず、「鑑賞」するための必須ツールである「キモノなどの装いについて、体系的に(人物像別、かつ、通時的に)、わかりやすく解説されたもの」が、あまり無いように思うのです(もちろん、いろいろな本があるので、私が知らないだけかもしれません)。その知識というのは、「人物像別(身分、職業、性別、年齢、別)」と「歴史的推移」という2つの視点からの整理が必要だと、私は考えます。

で、さらに言えば、「そのキモノの知識(人物像別、かつ通時的な)を使って、実際にどのように文化芸術を見て、味わい、鑑賞するのか?」ということになると、そういうものはほとんど無いのではないでしょうか。

以前、早稲田大学エクステンションカレッジでおこなった講座、「着物で読み解く名作日本文学 〜夏目漱石から、泉鏡花に永井荷風、有吉佐和子まで」「江戸のラブストーリー『人情本』に見る江戸娘の着物ファッション  〜『春色梅児誉美』を読んでみませんか? 」「「歌舞伎で読み解く着物ファッション」「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」や、今年の夏に自由学園明日館でおこなった「名作映画に学ぶ日本文化とキモノファッション」、それから、以前にWAGUさんのサイトで連載していたコラム「美女とキモノ 〜日本映画におけるキモノ美女の研究」などは、すべて、その「キモノの知識(人物像別、かつ通時的な)を使って、実際にどのように文化芸術を見て、味わい、鑑賞するのか?」についての(鑑賞についての)実践でもありました。

そもそも、私が、キモノに俄然興味を持ち始めたキッカケが、高校生のときに目にした、映画『鬼龍院花子の生涯』でのアンティークなキモノの着こなしや、泉鏡花の小説における呪文のようにキラキラしたキモノの描写、だったわけで。その時に私は、「着たい!(実践)」と思ったのと同時に、「読み解きたい!(理解鑑賞)」と思ったんです。結局、私は25年以上同じことをやっているのだな、と今思いました(笑)。


ちなみにですが、今回のような1年間かけて詳しく解説する通年講座は、今回で一旦お休みすることにしました(今後、開催しないかもしれません)。もしこうした講座にご興味がおありの方は、ぜひ今回、ご参加いただけましたら嬉しいです!

秋講座も、「着物が日常だった時代を、肌で感じとれる」ような内容にしたいと思っておりますので、土曜の昼下がり、江戸への小旅行気分でぜひお気軽に♪ 皆さまにお会いできるのを楽しみにしております。



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早稲田大学エクステンションセンターの講座についての全記事

2014年
「人物像で読みとく着物ファッション
    〜花魁、芸者から町娘、モダンガールまで」

「人物像で読みとく着物ファッション」についてのレポートです

「着物で読み解く名作日本文学
    〜夏目漱石から、泉鏡花に永井荷風、有吉佐和子まで」


2015年
「歌舞伎で読み解く着物ファッション
    〜花魁、芸者から御殿女中、町娘に悪婆まで」

「歌舞伎で読み解く着物ファッション」についてのレポートです

「江戸のラブストーリー『人情本』に見る江戸娘の着物ファッション 〜『春色梅児誉美』を読んでみませんか?」
「江戸のラブストーリー『人情本』に見る江戸娘の着物ファッション」レポートです

「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界
   〜歌舞伎、浮世絵から、任俠、花柳界、戦前モダン文化まで」

「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜任侠映画講座、開催しました!」
「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜仁侠映画について、その2
「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜仁侠映画について、その3

2016年
「人物像で読み解くキモノファッション文化史 Ⅰ
   〜花魁、太夫から、町娘、お姫様に悪婆まで」

「人物像で読み解くキモノファッション文化史 Ⅱ
   〜芸者、御殿女中から、江戸の色男、近代のモダンガールまで」


2017年
「人物像で読み解く江戸キモノファッション文化史 Ⅰ
   〜花魁、太夫から、町娘、お姫様に悪婆まで〜」


自由学園明日館にて、講座「名作映画に学ぶ日本文化とキモノファッション」を行います!

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お知らせです。8月と9月に、講座「名作映画に学ぶ日本文化とキモノファッション」を行います。

今回は、場所がスペシャルなんです! なんと、フランク・ロイド・ライト設計による、大正時代の近代建築「自由学園 明日館」(重要文化財)で行います! みなさま、ぜひ浴衣や夏キモノで(もちろん洋服でも!)、お気軽にご参加くださいませ♪





井嶋ナギ講座
名作映画に学ぶ日本文化とキモノファッション

日時:
 第1回 任侠世界 8月6日(日) open14:15、start14:30~16:30
 第2回 花柳界 9月3日(日) open14:15、start14:30~16:30

場所:
 重要文化財「自由学園 明日館」 小教室ドマーニにて →MAP
 JR「池袋駅」メトロポリタン口より徒歩5分
 JR「目白駅」より徒歩7分

参加費:
 各回3800円(税込)
【割引】2回分セット7000円(税込)
全席売り切れました。ありがとうございました!

お申込み方法:
 BASEshop「ex-workshop」にてお申込みください。
 お支払いは、クレジッドカード、コンビニ決済、pay-easy、銀行振込が選択可能です。

★ 教室の都合上、定員(各回20名)になり次第、締め切らせていただきます。お早目にお申込みくださいませ。

お問合わせ:ex-workshop Contact
主催:ex-workshop & 井嶋ナギ

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(チラシ画像をクリックすると大きくなります)
 


 

今回の講座は、どのような内容なのか?


というわけですが、実は今回の講座は、2015年に早稲田大学エクステンションセンターでおこなった、講座「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界 〜歌舞伎、浮世絵から、任俠、花柳界、戦前モダン文化まで」という講座のスピンアウトバージョンです。 www.nagi-ijima.com
この講座に参加してくださった方から、「もう一度、あの講座を開催してほしい!」「ぜひまた、あの任侠映画講座を受けたい!」と仰っていただき、今回、この講座を開催するに至りました。

早稲田の講座のときは、キモノについてはお話はせず、「映画で学ぶ、教科書では教えてくれない(裏)日本文化」といったノリの講座でした。が、今回は、それにプラスして、キモノについてもお話します!

いつも言っていることですが、キモノは「キモノだけ」で楽しむよりも、文学・映画・歌舞伎・浮世絵などと有機的にリンクさせながら、楽しむほうがより楽しいし、理解も深まります。というか、私自身が、そもそも映画や文学をむさぼっていた過程で、キモノという鵺に捉えられてしまったので、それらを(切り離したくても)切り離せないんですよ……。映画や文学や歌舞伎と関係させずに「キモノだけ」でキモノを楽しめ、と言われても、私などはちょっと困ってしまうんです(笑)。

というわけなので、「映画をネタにしながら、キモノを見つつ、知られざる日本の文化を学ぶ講座」といった内容にしたいと思っています!



以下、内容の詳細です。

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第1回は、任侠世界について。
1960年代に一世を風靡した任侠映画。数々の名作任侠映画に登場する女侠客たちが着こなす、粋で艶(あだ)なキモノの着こなしを見ていくとともに、東映映画の歴史や、歌舞伎からの影響、江戸時代から続く侠客世界の系譜についても解説します。


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第2回は、花柳界について。
明治大正昭和にかけて、芸者をめぐる花柳界を描いた文学や映画が大量に作られました。そんな花柳界を描いた名作映画を通して、当時の芸者のキモノの着こなしを見ていくとともに、江戸時代からの芸者の歴史、また、文学との関わりについても解説します。



ちなみに、任侠映画についての私の暑苦しい研究(?)について知りたい方は、以下のページをぜひご覧くださいませ。

「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです。
   〜任侠映画講座、開催しました!

「仁侠映画について、その2。
   『緋牡丹博徒』での華麗なる手本引き、もしくは、ややこしい任侠映画タイトルを整理する。」

「仁侠映画について、その3。
   博奕と893の歴史について、もしくは修行を愛する日本人論。」




 

自由学園 明日館という、素晴らしい近代建築について


それから、今回は、ロケーションが素晴らしいのです…! 場所は、重要文化財の「自由学園 明日館(みょうにちかん)」。

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「自由学園 明日館」は、1921年(大正10年)、羽仁吉一・羽仁もと子夫妻が創立した「自由学園」の校舎として建てられました。設計は、アメリカ人建築家、近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)。そう、あの大谷石を使った名建築「旧・帝国ホテル」(1923年(大正12年)竣工、1968年(昭和43年)解体)を設計したライトです! ちょうど、帝国ホテル設計のために来日していたライトを、ライトの愛弟子だった建築家・遠藤新が、羽仁夫妻に紹介したのだとか。

ライト設計の建築は、N.Yの「グッゲンハイム美術館」などが有名ですが、日本にも数点あって、「旧・帝国ホテル」(エントランス部分のみ)が明治村に移築されているのと、この「自由学園明日館」。それから、兵庫県芦屋市に「旧・山邑家住宅」(現・ヨドコウ迎賓館)というゴージャスな邸宅があり、数年前に私も見に行きました。いや、素晴らしかったですよー!

ちなみに、フランク・ロイド・ライトの孫娘に、『イヴの総て』のイヴ役や、『十戒』でセクシーな王妃ネフェルタリ役だった、アン・バクスターがいるんですよねぇ(映画関連として…)。

なんて、いろいろ書いてるとキリがないのですが、とにかく古い建築好きにはたまらない場所、それが「自由学園 明日館」。

土日祝日は、結婚式が行われているので、ホールなどの中には入れないのですが、広い芝生の庭や、緑の切妻屋根幾何学的な装飾がほどこされた柱や窓など、とにかくステキな空間が楽しめます! 都内の真ん中とは思えない、自然に囲まれた、とても気持ちのいい場所なんです。


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こんな気持ちのよい場所で、映画や、キモノや、日本美の話などしながら、皆さんと楽しく過ごせたらいいな〜と思っております。

ぜひ皆さま、浴衣や、夏キモノなどで(もちろんお洋服でも大歓迎です)、お気軽に遊びにきてくださいね!


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とんでもなく素晴らしい、四代目市川猿之助の踊り 〜歌舞伎座で『奴道成寺』を見ての記

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好きな人を好きだと気づくのって、実はちょっと難しいことだと思いませんか? 「なんだか気になる」「いつの間にか探してしまう」「いつも必ず見てしまう」という過程を経て、「あれ、私、好き?」「いや、別に好きってわけじゃないんだけど…」とか自分で言い訳しているうちに、アッと気づいた時には、「好きになっちゃってルー!」と認めざるを得ない。そういう、なかなか自己認識が遅れがちなタイプ、っていますよね(私)。

という前置きをして、告白します。

わたくしは、猿之助が好きです!!!! 

大ファンです!!!! 虜になりました!!!!(踊りの)



とにかく踊りがウマすぎる、猿之助の『奴道成寺』


というのもですね、今月(4月)の歌舞伎座の、市川猿之助による舞踊『奴道成寺』が、ほんとうにすばらしかった!!! あんな踊りを見せられたら、全面降伏状態。なにも言えません。とにかく、「私は、猿之助の踊りを、これから一生見ていく!」と強く思いました。それくらい、素晴らしかったのです。

特に、『奴道成寺』という踊りは、『京鹿子娘道成寺』のパロディ版。玉三郎さんが魅せるような美しく幻想的な世界とはまた違う、ユーモラスで可笑しくてウキウキするほど楽しい踊りなんです。『娘道成寺』とほぼ同じ曲を使うのですが、『娘道成寺』が女の踊りであるのに対して、『奴道成寺』は男である狂言師が踊るという(ちょっとふざけた)設定。で、そのなかで、面(おかめ、ひょっとこ、お大尽)を次々とつけかえながら踊るところが、最大の見せ場。猿之助が、次々と面をつけかえてその役に早変わりするところは、もう、100回くらい見たいほど見事でした。

歌舞伎や踊りに少しでも興味のある方は、「一幕見席」でぜひぜひ見に行ってみてください! 「日本の踊り」の楽しさを、たっぷり味わえることを保証します。「一幕見席」で見る方法については、以下をぜひ参考になさってくださいね。
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『黒塚』を見て、猿之助の踊りにド肝を抜かれた話


と、イキナリ冒頭から暑苦しくてすみません…。とにかく、猿之助丈の踊りの上手さといったら、ちょっとほかの人とは「次元」が違うんです。もちろん、ほかの歌舞伎役者さんも、そりゃあ子どもの時から英才教育を受けている方々ですから、とても上手です。だけど。そのなかでも、猿之助は、頭1つ分、抜きん出ている感じなんです。

私が猿之助の踊りに驚愕したのは、実は遅くて、2年前、2015年の歌舞伎座でした。玉様の『女暫』『蜘蛛の拍子舞』をお目当てに行ったのですが、たまたま見た、猿之助の踊り『黒塚』に度肝を抜かれまして…。そのときのtwitterでのつぶやきを発見したので、貼り付け。


なんかもう、ちょっと、すごすぎて、ボーゼン、というようすが伝わってきます(笑)。あまりにすごくて、涙ぐんでましたね。感動して。

この『黒塚』以降、とにかく、猿之助を見るのが楽しみになりました。いつもは3階席で節約する私が、猿之助の『義経千本桜』の四ノ切は、張り切って1階席の花道の真横で見ちゃったり(私にしては大フンパツです!)。私の数センチ横を、猿之助の狐忠信がサァーッと駆けていった後に、ふわーっと動いてきた空気の感触は、忘れられません。

…と、ハタから見たら、「充分、猿之助ファンじゃん!」って感じなんですが、私自身は「これを猿之助ファンと言っていいのだろうか?」と長らく悶々としておりました(笑)。というのも、「玉様、美しすぎる…! 神!」とか「キャー! 仁左衛門さん、ステキ〜〜! 愛人にしてほしい〜〜」みたいなファン心理とは、ちょっと違うんですよ。なんていうんでしょう、「あの踊りすごすぎるけど一体なに?」「あの体の動きどうなってんだ?」っていう、猿之助自身がどうこうっていうよりも、「猿之助の体がつくりだす芸」の凄さにただもう圧倒されている感じというか。サッカーとかの試合で、誰だかわからない外国人選手の凄いプレーを見て、「うわ今の何すげー!!」と思わず叫んじゃうような。究極を言えば、猿之助という役者のことは意識から消えてしまって、彼によってつくり出された「芸のかたち」に毎回、驚き、感動する感じなんです。

今年1月の、新橋演舞場でもそうでした。猿之助の舞踊『黒塚』を再び見まして、泣きました。絶品でした。このときのtwitterでのつぶやきも貼り付け。


圧倒されてしまって、自分のなかで消化しきれず、アワアワしている感じが伝わってきます(笑)。



猿之助の踊りは、どのように素晴らしいのだろうか?


そもそも、踊りについて言葉で語ろうとすると、どう説明していいものか、いつも悶々とするのです。

日本舞踊というものが、今の時代においてメジャーではないため、踊り用語を使って説明しても通じない、というハンデもあります。例えば、野球だったら、「ストライク」「フォアボール」「三塁打」とか、まぁ通じますよね? でも、踊り用語で「おすべり」「トン」「要返し」と言っても、一般的にはピンとこないですし。そうでなくとも、踊りの「技術そのもの」について、言葉で説明するのはとても難しい

踊りの評論のようなものを読んでも、どうも私がピンとこないのは、それが、「印象論」のようなものになってしまうことが多いからだと思うのです。つまり、「メタファー」を使って説明するしかない、というものになってしまう…。例えば、こういう感じ。「◯◯の踊りを見ている間、私の眼前には、花から花へと移り飛んでゆく蝶が見えた。確かに、それは存在したのだ」みたいな。もちろん、それが悪いとは言いません、そういった文学的な評論はうまくいけば素晴らしいと思うし、散文としての価値があると思います。でも、踊りの「技術そのもの」について語ることは、不可能なのだろうか? 

…そんなことを、今年1月に見た猿之助の『黒塚』を見たときに思ったんです。これを、この猿之助の素晴らしい踊りを、印象論だけで語っていいものだろうか? と。そうなると、「そもそも舞踊ってなんだろう? ひとまず、舞踊は芸術のひとつのジャンルだとして。じゃあ、芸術ってなんだろう? というか、私は芸術をどういうものだと考えているんだろう?」という疑問が次々湧いてきてしまって、その時に「芸術と技術について、マジメに考えてみた」という記事を書きました。

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この記事からセルフ引用しますが、私は「芸術」の基本的な定義を、以下のように考えています。

「芸術」とは、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ


どんなジャンルの「芸術」でも、まずは「技術ありき」。どんなに真剣に取り組んでいても、どんなに心がこもっていても、どんなに思いが深くても、高度な「技術」がなかったらそれでおしまい。人を感動させることはできないと考えます。

と、書くと、「でも、例えば、ヘタウマでも一生懸命取り組んだ成果を見て感動する、ということもあるんじゃない?」と言われるかもしれません。でも、それは「成果物」そのものに感動しているんではなくて、一生懸命やったその「人」に感動していたり(子どもの一生懸命さに感動する等)、自分の「過去の体験」が蘇って感動していることもあります(あるあるネタで感動する等)。それは全く別のことです(良い悪いではなく、ただ、違うものとして区別しました)。

そして、その技術というのは、とにかく地道な鍛錬の蓄積ナシでは、絶対にありえない。生まれつきの才能とか、親ゆずりの血だとか、そういうものは(遺伝子を解読してみければわかりませんが、全くないわけではないでしょうけれど)たいした差ではないと思っています。つまり、高度な技術というのは、ほとんどの場合、「この世に生まれてから、その技術の上達のために、どれだけの時間とエネルギーを費やしてきたか?」に尽きる。


ということを前提として、猿之助の踊りを見ると、「一体、この人は、どれだけの稽古を重ねて、こんなに踊りが上手になってしまったんだ?」と、恐ろしい気持ちになるんですよね。もちろん、歌舞伎役者の家の人は皆な、小さい頃から英才教育を受けていますから、うまくならないほうがおかしい、ということは言えますけど。

でも、そんな英才教育を受けた人たちのなかでも、猿之助の踊りは、「巧さ」でナンバー1だと思います。ただし、「巧い」とは違うべつの評価軸もあるので、ほかの役者の踊りが駄目と言っているのではありませんよ、念のため。(たとえば、「幻想美」「粋」なら玉様、「端正美」なら七之助、「色気」なら仁左衛門さん、「華」なら海老蔵、だと私は勝手に思ってます)


今月の歌舞伎座は、実は、私の踊りの師匠である花柳美嘉千代先生をお誘いして行ってきました。師匠はプロですから、踊りを見る目は正直とても厳しいです。その師匠が猿之助の『奴道成寺』を見てどのように仰るか? 私は楽しみにしてました。

で、今回の『奴道成寺』を見た直後。「素晴らしかった〜〜!」と、師匠も大絶賛。もちろん、もともと先生は猿之助の踊りについて「すごい」と仰っていましたが、「改めて、彼の踊りは、本当にスゴイ…」と。その後はしばらく、師匠と弟子で興奮さめやらず、踊り談議で大騒ぎでした。

花柳美嘉千代師匠に、「猿之助の踊りのどこらへんが凄いと思いましたか?」と尋ねてみたところ、以下のようなことを仰っていました。

■ 踊りを完全に「自分のもの」にしていること
■ 見る者を引きつけ楽しませようとする力・意識の強さ
手の指先足のつま先に至るまで、すべてに気を配っていること
■ それでいて余裕さえ感じさせるところ
力を入れるところと、力を抜くところの、メリハリが抜群
■ たまにドヤ顔でキメるところもあって、可愛さたっぷりなところ
■ 3つの面をあんなに数秒単位でこれでもか!というくらい頻繁に早変わりするのは、初めて見た

とのことでした。勉強になりますねぇ。プロの方は同じ踊りを見ても、私みたいなシロウトが見えない領域まで見えます。なので、先生に対していつも怒涛の質問攻めになってしまう私ですが、「プロの方はこういう視点で見ているのだなぁ」という新しい発見があるのが、いつもすごく楽しいのです。

ちなみに、私が私なりに感じた猿之助の踊りの凄さは、以下です。

■ 音楽にノリノリにノっていて、後ろに並んでいる長唄連中などの地方さんをリードする勢いだったこと
■ 何をやっても、どんなフリでも、どんな時でも、音とリズムと体が「一体化」していること
■ 言い換えれば、そのくらい自由自在に体をコントロールできること
■ 体幹が安定していて、どんな動きでもブレないこと
ムダがなく、ノイジーな動きがないこと

でしょうか、でも私の拙い言葉では、あの素晴らしさの万分の一も言い表せません…。

とにかく、素晴らしかった!(としか言いようがない) そうそう、拍手もいつもよりすごくて、万雷の拍手でしたね。あんなに大きな拍手は、毎月歌舞伎座に通っていても、本当に素晴らしい時にしか起こりませんから。やはり特別に素晴らしいものは、一般のお客様にも通じるんだなぁ、と、思った次第。私も、幕見席でまた見に行くつもり! あと2回は見たいかなぁ。行けるように頑張りたい。

猿之助の『奴道成寺』、今度またいつ見られるかはわかりません。とりあえず、現在41歳の猿之助の、パワーあふれる年齢での『奴道成寺』を見逃すな!!! と、煽っておこうと思います(笑)。




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■ 2016年 玉三郎×勘九郎『二人椀久』 玉三郎×他『京鹿子娘五人道成寺』を見た記事
踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座

■ 2006年 玉三郎×菊之助『二人椀久』を見たときの記事
【歌舞伎・日舞】 『二人椀久』@歌舞伎座

■ 2014年 玉三郎×七之助『村松風二人汐汲』『二人藤娘』を見たときの記事
玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について。

■ 月影屋・重田なつき ✕ 井嶋ナギ 連載対談
  『ナギと!なつきの!高いもん喰わせろ!』
第2回 歌舞伎座に行って参りました

■ 「【日本を知るための100冊】006:高遠弘美『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』  〜年齢を重ねることで到達できる領域について。



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