「戦争映画=反戦映画」という刷り込み、ありませんか?
前回、映画『ダンケルク』について書きました。
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この、映画『ダンケルク』について、「戦争がちゃんと描かれていない」「人間ドラマがない」と感じる人もいるそうで、それは何故だろう? と考えました。
つまりそれって、「戦争映画とは、こういうものである」というモデルパターンが根深く刷り込まれているゆえ、ではないでしょうか? つまり、「戦争映画=反戦映画という刷り込み」です。
少なくとも、私はそういう「刷り込み」がありました。幼少期から、繰り返し、さまざまな戦争もの(映画、ドラマ、マンガ、小説など)に接してきた結果、「戦争映画」は、戦争反対、戦争の悲劇、命の大切さ…こうしたメッセージを主張したもの、という刷り込みがあったように思うのです。
私にとって、戦争を描いた物語というのは、『火垂るの墓』であり、『ガラスのうさぎ』であり、『黒い雨』であり、『プラトーン』であり、『地獄の黙示録』であるというような、「そういうもの」でした。
ところが、ここ数年、戦争を描くストーリーが変わってきているな、と思い始めたのです。
最初に「あれっ?」と思ったのは、4年前に見に行って本当に感動した、宮崎駿監督の『風立ちぬ』(2013)。設定は戦時下だけど、描かれているのは「飛行機が好きでしょうがない青年が、夢を追い続ける話」です。戦争時代を描いているけれど、全然、反戦映画ではない。
続いて、去年、『この世界の片隅に』(2016)を見たときには、ハッキリ衝撃を受けました。「戦争映画だと思いきや、いわゆる戦争映画ではい」という「新しさ」に。設定は戦争下(しかも広島)だけど、描かれているのは「絵を描くのが好きでしょうがない女の子が、自分なりの幸せを見つけようとする話」です。戦争反対とか命の尊さという主張がテーマではないので、これも、戦争時代を描いているけれど、全然、反戦映画ではない。
歌舞伎の作劇法で、考えてみる
ここで、イキナリですが、歌舞伎の作劇法を利用すると、話が大変わかりやすくなると思うのです。
歌舞伎では、江戸時代中頃から、「世界」と「趣向」という概念でもって、舞台のストーリーを作るようになりました。歌舞伎における「世界」というのは既に存在する設定のなかから選ぶもので、例えば、「忠臣蔵」の世界、「源頼光と四天王」の世界、「蘇我兄弟の仇討ち」の世界、「伊勢物語」の世界、「加賀騒動」の世界、などなど、あらかじめ「観客におなじみの世界」をチョイスできるようになっています。
例えばですが、そのなかから「忠臣蔵の世界」を選んだ場合は、必ず、赤穂藩の浪人がいて、敵討ちのために企んでいて、最後は吉良家に討ち入りする、という流れは「設定」として必ずある。それは、作り手も受け手も、お互いにそれを「お約束」として承知しているわけですね。
その代わり、その「設定」さえふまえておけば、そのなかでの「趣向」は何でもOK。その「設定」さえふまえていれば、やりたい放題、まさにフリーダム。赤穂浪士と関係ない娘や貧乏人が出てきてもいいし、殺人があってもいいし、幽霊が出てきてもいい。というわけで、『東海道四谷怪談』は、実は「忠臣蔵の世界」のなかでいろいろ「趣向」をこらした舞台の傑作なのですが(作:四世鶴屋南北)。
このような歌舞伎の作劇法を利用して考えると、上記のアニメ映画は、以下のようになります。
『風立ちぬ』
世界:太平洋戦争時代
趣向:飛行機が大好きな青年が、(戦争や愛する人との出会いと別れを経験しつつ)飛行機づくりに夢をかける話。
『この世界の片隅に』
世界:太平洋戦戦争時代、広島の呉
趣向:絵を描くのが大好きな女性が、(戦争や人々との出会いや別れを経験しつつ)自分なりの幸せを見つける話。
という分析になります。そういう意味では、この2つの作品はとても似ています。
と、ここでふと、話題沸騰中の新人監督・小林勇貴監督の『孤高の遠吠え』(2015)を思い出しました。パッと見では似ても似つかないのですが(笑)、この作品もとても似ている構造です。
『孤高の遠吠え』
世界:現代、静岡県富士宮市の不良世界
趣向:バイクの好きな青年が、(不良同士の戦争や友達との別れを経験しつつ)バイクを愛し続ける話。
上記の映画はそれぞれ全く違う作風で、それぞれ大好きなんですが、「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」とは別に、「自分だけの世界」を心のなかに持っていて、世間や時代がどんなに威嚇や暴力をしかけてきても、「自分だけの世界は大事に守って大切にする」、ということについて描いている。このことが、今の私たちに切実に訴えかけてくるのだと思うのですね。
時代につぶされることなく、とにかく生き抜いていく物語
と、ちょっと話は脱線しましたが。こうした分析をしてみると、『風立ちぬ』と『この世界の片隅に』は、決して、「戦争によって、家族や恋人たちが引き裂かれ殺される悲しい話」ではない。そして、前回分析したように、『ダンケルク』もまた、決して、「戦争によって、家族や恋人たちが引き裂かれ殺される悲しい話」ではない。
「ふーん、それで?」と思うでしょうか? いや、これ、私にはちょっと驚きでした。「戦争時代を描いてるのに…(本質的に)悲しい話にしてない!」という、その一点において。そして、「ああ、第二次世界大戦を描く、そのスタンスや視点が変わりつつあるのかもしれない…」と、そうハッキリ感じたのです。
第二次世界大戦が終了したのは、1945年。言うまでもなく、戦争はとてつもなく強烈な体験だったでしょう。
特に、全国を空襲で焼かれ、原爆まで落とされてしまった日本では、戦後しばらくは、「戦争を描く」ことは「戦争反対・戦争の悲劇をダイレクトに描く」ということとニアイコールだった時期があったのではないか、と。そんな(戦争を語る世界における)怒りと悲しみの時代が、20世紀終わりまで続いたのではないか、と。…仮説ではありますが。
ところで、私の母方の祖父は職業軍人でしたが、24歳のとき、台湾で終戦を向かえたそうです。そして、2011年に90歳で亡くなりました。ということは現在、太平洋戦争を20代で経験しているような人が、そろそろこの世から去りつつある…ということですよね。
そして、良い悪いではなく、そうした時代になってやっと、私たちは、戦争について「悲劇一色」ではない、またべつの見方で戦争を眺め、語ることができるようになった、とも言えるのではないでしょうか?
もちろん、戦争は起こしてはいけないし、戦争は本質的に悲劇的なものだというのは絶対です。だけど、「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」に押しつぶされることなく、「とにかく生き抜いていく物語」があったっていい。いや、あってほしい。これは私の「願望」。
だって、たとえ戦争が起きていなくても、個人ではどうにもしようがない「世間や時代が否応なしに押し付けてくるもの」というのは、どんな時代にも必ず存在していて、若者は(いや、大人だって)それに押しつぶされそうになる、ということはいつでも起こっていることだから。
そんな私たちにとって、「時代につぶされることなく、時にはみっともなかったり、時には自分なりの幸せを大切にしながら、強く、たくましく、とにかく生き抜いていく物語」は、辛いときにそっと握りしめたくなる「お守り」のようなもの。荒井由実の『ひこうき雲』を聞きながら、そんなことを考えました。
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