井嶋ナギの日本文化ノート

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今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その3 〜今度こそよーーくわかる保元の乱!

歴史《日本》


前々回「その1」と、前回「その2」の続きです。『平清盛』放映終了から約1年、今更ながらDVDを見て、その素晴らしさに感動、恥を忍んで「見ました記」。そして勝手ながらも、「低視聴率もナットクの素晴らしい点」を4つあげてみました。完全に出遅れつつも、一周回って新しい! …かどうかわかりませんが(笑)、以下。

1. あまりなじみがなくイメージしにくい「時代設定」
2. ドロドロで淫靡で腹黒な「人間関係」
3. 極端に闇(ダークサイド)を背負った「キャラクター造形」
4. 複雑すぎてwikiってもいまだよくわからない「利害関係」


というわけで、前回の続きです。


4. 複雑すぎてwikiってもいまだよくわからない「利害関係」について。

そう、このドラマの難しさって、とにかくこれに尽きる気がしました。登場人物の人間関係・利害関係が、かなり複雑(笑)。しかも、出てくる人の名前ときたら、「平さん」か「源さん」か「藤原さん」しかいないし、その下の名前も同じような文字(平氏だったら「○盛」、藤原氏だったら「忠○」「基○」とか)が必ずついてきて、わかりにくいったら。当時の人は混乱しなかったのか? という素朴な疑問。

だからこそ、この複雑な人間関係をヴィジュアルで見せてくれたことに、大きな価値があると思うのですよ。だって、今の私ならば、「藤原頼長? 山本耕史の白塗りメイクよかったよねぇ」とか、「藤原忠通ね〜、堀部圭亮の公家美にはウットリした〜」とか、「藤原信頼って、ドランクドラゴンの塚地でしょ(笑)」とか、この似たり寄ったりの名前を区別することができています。でもこれが、文章だけだったらどうでしょう? 名前の字ヅラだけでは、私はこれらの人々を記憶することはできなかったでしょう(「いや、別に記憶したいとは思ってない」という意見もあるでしょうけど笑)。

それと、もうひとつ。このドラマ、「こっちが善」で「こっちが悪」という描き方をしていないんですよね。前回書いた天皇家の人々も、実際かなりの「闇」キャラなんですけど、決して「悪」として描かれてないという驚き。主人公の清盛も同じで、例えば大ヒットした『龍馬伝』では「坂本龍馬=善」でしかあり得ませんでしたが、清盛はわかりやすい「善」では決してない。わかりやすさを優先したら、「善玉」「悪玉」で分けて描いた方がよっぽどラクなはずなのに、そうしたことよりも、人間の持っている複雑さを丁寧にすくい上げることを優先したという意味で、登場人物の利害関係のわかりづらさも『清盛』の素晴らしさのひとつだと思った次第です。


でも確かに、見ている最中は私も、「あれ、この人とこの人って味方同士だっけ…?」とかよくありました(笑)。で、そのたびにDVDを一時停止して、ネットでwikiったりして史実を確認、それでも結局「んー、よくわからない?」とか(笑)。そんな人間関係の分かりづらさがピークに達する(と思われる)のは、「保元の乱」ではないでしょうか? 


そこで、唐突ですが、「今度こそよーーくわかる保元の乱」企画、です!(笑)


kiyomori-ii



ドラマ『平清盛』の大きな山場であり、日本史の教科書にも必ずのっている、「保元の乱」。だけど、今ひとつ、この戦いが起こった背景がスッキリと見えてこない、「保元の乱」。この戦いが分かりにくい理由のひとつは、源平合戦のように「源氏」VS「平家」というような単純な対立構造ではないから、でしょう。一般的に、「保元の乱」の解説としてよく見られる簡単な対立関係は、例えば以下のようになります。

【天皇家】 後白河天皇(弟)  VS   崇徳上皇(兄)
【藤原家】 藤原忠通(兄)   VS   藤原頼長(弟)
【平氏】  平清盛(甥)    VS   平忠正(叔父)
【源氏】  源義朝(子)    VS   源為義(父)

なるほど〜、それぞれの階級で、それぞれの対立関係があったのか〜! …って、既にもう複雑です(笑)。とは言え、平氏と源氏は、ハッキリ言って「戦力として調達された」に過ぎません。なぜなら、この時点(保元元年=1156年)で、武士はあくまでも天皇家や貴族の「私的戦力」に過ぎなかったから。「戦え!」と命令されれば「承知仕り候」と返すしかない立場でした。では、大もとの、そもそもの対立はどこにあったか? といったら、それはやはり天皇家にあったのですね。天皇家が何を争ってたんだ? と言ったら、「皇位継承権」です。要は、やっぱり、「権力争い」なわけですよねー(って、当たり前か)。

「保元の乱」が起こる以前の、天皇家の対立関係をもの凄く簡単に書くと、以下のようになります。

崇徳上皇(子)
   VS
鳥羽上皇(父)
  美福門院(鳥羽上皇の妻)
  院の近臣(鳥羽上皇の側近の貴族たち。藤原家成、平忠盛&清盛など)

かなり、シンプルになりました! まず、父と子の対立ありき。じゃあ、なぜ鳥羽上皇は息子である崇徳上皇を嫌ったのか? についてはその2で書いたように「崇徳上皇は本当は鳥羽上皇の子どもじゃなかったから」という俗説がありますが、史実かどうかはわかりません。実際は、やはり、親子と言えども「権力の奪い合い」をするものだということなのではないかと。これについては、まず「院政」について説明する必要があります。

平安時代末期、白河上皇の時代から、「院政」というものが始まりました。「院政」をおこなうための絶対条件は、天皇自身が権力をふるえるうちに退位して「上皇(院)」となり、自分の直系の若い息子をサッサと「天皇」に即位させること! それによって、上皇は「天皇家の家父長」として絶大な権力をふるえるようになる。それが「院政」という新しい権力システムでした。なので、いくら退位して「上皇」になったとしても、もし自分の子ではなく例えば兄弟が「天皇」になってしまったとしたら、「上皇」は単なる上皇でしかなく、「院政」をおこなうことはできなかったのです(←ここ大事です!)。

ここに、崇徳上皇と鳥羽上皇が対立する原因がありました。なぜなら、崇徳上皇がまだ「天皇」だった頃、父・鳥羽上皇鳥羽上皇の妻美福門院)にほとんど騙されるようなカタチで、自分の弟に「天皇」の地位を譲らされ、崇徳上皇の「院政」への道が妨げられてしまったからです…(涙)。ところが、その弟は天皇に即位したもののあっけなく死去。次の「天皇」候補者は崇徳上皇の息子だったので、そうなれば、今度こそ崇徳上皇が「院政」をおこなえる! 再びチャンス到来! ところが、そこで邪魔をしてきたのは、またもや鳥羽上皇陣営でした。崇徳上皇に「院政」をやられると困る=まだまだ鳥羽上皇の「院政」を続けてもらわねば、というわけで、崇徳上皇のもうひとりの弟を持ち出して「天皇」に即位させ(→後白河天皇)、またもや崇徳上皇の「院政」への道は妨げられてしまうのです…(涙)。

そんなわけで、父・鳥羽上皇と対立し、権力から遠ざけられた崇徳上皇は、朝廷から孤立していきます。これが、「保元の乱」の大もとの原因になるのです。


上記のように見てくると、わりとシンプルですよね? なのになぜ複雑に思えてきてしまうのか? というと、上記のような天皇家の対立に、貴族間の対立が絡んでくるからなんです。そのひとつが、貴族界のトップの地位にあった藤原摂関家」で起こった対立です。以下。

藤原頼長(弟)(氏の長者)
  VS
藤原忠通(兄)(関白)

そうそう、当然のことになっていて誰も説明してくれませんが、平安時代の貴族ってことごとく「藤原」ですよね(笑)? これは、飛鳥時代に中臣鎌足が天智天皇から「藤原」姓を賜って以降、藤原氏は栄えに栄え、400年以上経った平安末期には朝廷中が「藤原さん」だらけになってました(笑)。そんなあまたいる「藤原さん」の中でも名門中の名門が、「藤原摂関家(せっかんけ)」です。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の〜」で有名な藤原道長の直系の家柄で、貴族の最高官位である「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」に代々就任。摂政・関白は、「天皇の代理として政治を行う」役職ですから、事実上、最高権力者みたいなものだったわけです(天皇が成人未満であれば補佐する者は「摂政」、天皇が成人以上であれば補佐する者は「関白」、という違いがあります)。

こうして、ずっと「氏の長者(藤原摂関家のトップ)=摂政・関白」という図式が定着していたのですが、院政時代になると、なんと、兄弟で「氏の長者」と「関白」が分裂してしまう、という事態が発生! 忠通(兄)と頼長(弟)の対立です。どうしてこんなことが起こったのかというと、結局、既に藤原摂関家にリアルなパワーが無くなり、ブランド名だけになっていた、ということかと思われます。というのも、それまで藤原摂関家が「摂政」「関白」を独占して「絶大なパワー」を発揮できていたのは、娘を天皇家に嫁にやり、生まれた男子が天皇に即位することによって、天皇の「外戚」になれていたから、なんですね。ところが、実は、白河上皇の父の代あたりから、藤原摂関家は、天皇の「外戚」ではなくなっていたんです。そうなると、「摂関家」や「関白」のブランドはあっても、実際のパワーは激減。争いというものは、たいてい、絶大なパワーの衰亡・喪失・不在によって起こるもの。摂関家も例外ではなく、大きな力で全体をまとめることができなくなっていたのでした。(ちなみに言えば、「院政」というものも、それまで藤原摂関家に牛耳られていた天皇家が、藤原摂関家のパワーが激減したおかげで、政治的権力を取り戻すことができた例、とも言えるのです。余談ですが)。


そんな藤原摂関家の争いが、天皇家の対立にどう絡んだかというと、以下。

崇徳上皇(子)          藤原頼長(弟)
   VS
鳥羽上皇(父)           
  美福門院(鳥羽上皇の妻)   藤原忠通(兄)
  院の近臣(鳥羽上皇の側近の貴族たち)
  後白河天皇

こんな組み合わせになりました! どうしてこうなったかというと、ザックリ言えば、藤原摂関家のトップ(=「氏の長者」)である頼長が、朝廷の皆さんからかなり嫌われていたから、です(笑)。頼長は、「その1」で書いたように男性との色事について細かに日記に残している人ですが、この人は実は大変な学者で、グダグダになった朝廷を立て直そうと、儒教に基づいたキビシ〜い綱紀粛正をおこなったらしい。が、そんな綱紀粛正を喜ぶ貴族なぞいるはずもなく(笑)、結果、鳥羽上皇や近衛天皇からも嫌われ、ほかの貴族たちからも嫌われまくりに。結果、頼長は、朝廷から孤立していくことに…。

一方、頼長と対立していた兄の忠通は、鳥羽上皇の妻である美福門院と、「アンチ頼長」「アンチ崇徳上皇」という点においてコラボ関係成立! 朝廷で孤立していた頼長と、同じく孤立していた崇徳上皇という、ある意味で「朝廷のやっかい者ツートップ」を消してしまえ! ということで一致し、「腹黒チーム」(藤原忠通と鳥羽上皇の妻・美福門院)は、さまざまな策謀を練り始めます…(腹黒)。このようにして、天皇家の対立と、藤原摂関家の対立が、一体化してゆくことになりました。


そして、保元元年(1156)。長く権力をふるった鳥羽上皇が死去。パワーバランスが崩れ、一気に戦争へ!!! 「保元の乱」勃発時は、以下のような対立構造になっていました。

崇徳上皇(兄)            藤原頼長(弟)
   VS
後白河天皇(弟)
  美福門院(故・鳥羽上皇の妻)   藤原忠通(兄)
  院の近臣(故・鳥羽上皇の側近たち)
  後白河天皇の側近たち(信西、信頼など)


「あれ、清盛とか全然出てこないんですけど?」…ですよね(笑)。でも、この時点では、武士はあくまでも、天皇家や貴族の私的戦力だったに過ぎません。武士同士で対立して奪いあうほどの権力もまだ持ってないですし。とは言え、もちろん、実際に(職業として)戦ったのは、貴族ではなく武士ですから、武士たちがどういう対立関係になっていたのかを、以下に簡単にまとめておきます。

崇徳上皇藤原頼長
  藤原頼長(藤原摂関家)に仕えていた、源為義(源義朝の父)
  藤原頼長(藤原摂関家)に仕えていた、平忠正(清盛の叔父)
   VS
後白河天皇故・鳥羽上皇の妻と近臣藤原忠通
  後白河天皇と関係が深かった、源義朝(源頼朝の父)
  故・鳥羽上皇の「院の近臣」(北面の武士)だった、平清盛


結果、勝ったのは、後白河天皇側。負けたのは、崇徳上皇側でした。



というわけで、「保元の乱」の人物関係を整理してみました〜(自分的にスッキリ…笑)。こうして見てみると、なんとなくそれぞれの人物の「欲望」「私怨」で戦争が起こったように感じますが、「私怨」だけで戦争が起こってたらキリがありませんよね(笑)。そうではなく、「私怨」「欲望」が戦争に発展してしまうほど、それぞれの力が拮抗していた、言い換えれば、圧倒的な力を持った者がいなかった、ということではないでしょうか。

平安時代末期になると、旧来のシステムが機能しなくなり、既存の権威や力が衰え始めるのと同時に、各地に新しい勢力(武士階級をはじめ、摂関家ではない中流貴族とか、寺社勢力など)が生まれ、小さな規模ではあるけれど、ある意味で戦国時代のような様相を呈していたのではないかと思うのです。そんななかで、新たな「秩序」を打ち立てるには、それらをまとめる「圧倒的な力」と「力の序列」が絶対に必要になる。だからこそ、「保元の乱」「平治の乱」を経て、財力と武力と政治的権力とすべてを手に入れた平清盛が、のし上がり、朝廷を牛耳ることができたのでしょう。

だけど、ここでフト気がつきました。それよりもさらによい方法があるのでは? ということを。圧倒的な力を獲得するよりも、さらにもっと効率のよい方法。それは、「そんなメンドクサイ場所からはサッサと離れる」かもしれない、と…。だって、その数10年後に源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げることができたのは、京の都から離れたからだろうし、徳川家康が江戸幕府を開いて戦国時代を終わらせることができたのも、京の都から離れたからだし、薩長の明治維新が成功したのだって、都を京都から江戸に遷したからではないか、と。そんなことを考えた次第です。



それと、私事で大変アレですけど、実は、ドラマ『平清盛』にチラッとだけ出演させていただきました…! 実は、私の師匠である花柳美嘉千代先生以下、弟子数人がエキストラで踊るという、貴重な機会をいただいたのです(第23話「叔父を斬る」)。「保元の乱」戦後処理で、家族を処刑せねばならなかった清盛に、後白河天皇が「朕(ちん)のチカラを思い知ったか!この薄汚い武士めが!!」みたいな態度を見せ、屈辱に耐える清盛のまわりで「遊びをせんとや〜〜」とのん気に歌いながら舞う白拍子のひとり、になってます(笑)。

衣裳はこんな感じでした↓

kiyomori-shira


麻呂眉メイクは我ながら「うしろの百太郎」のようでした(笑)。





今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その1
   〜平安時代末期と妖しい人間関係を楽しむ!


今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その2
   〜王家=天皇家の人々の「闇」っぷりが凄い!







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