井嶋ナギの日本文化ノート

井嶋ナギ の日本文化ノート

井嶋ナギ のサイトです

芸術と技術について、マジメに考えてみた。

先月(1月)、新橋演舞場で猿之助の舞踊『黒塚』に泣き、つい先日は、シネマ歌舞伎で玉様の『阿古屋』に感動し、「ああ。踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と感じる新年。まぁ、年末も充分、「踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と一人でわめいてたんですけど(笑)。
(参照→「踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座」)。

なにか素晴らしいものを見て、心が感動に震えると、この感動を言葉にしたい、誰かにこの感動を伝えたい、と思うものですよね。

だけど、踊りを言葉で語るのは、とても難しい。「素晴らしかったー」「すごかったー」としか言いようがなくて、感動を語りたいという欲求と、それを表現する言葉が私にはないのではという不安が、脳内で闘ってます(笑)。いや、別に「素晴らしかった〜」でいいんですけどもね。

というわけで、踊りについて書く前に、「芸術とは何なのか?」について、一度整理しておきたいなと思い、久しぶりに書きます(長くなりそうな予感…)。

 

 

アートとは、なにはともあれ「技術」のことである。

 

当たり前のことを言うようですが、踊りは、「肉体のアート」です。バレエやジャズダンスのような西洋の踊りにしても、舞や舞踊のような日本の踊りにしても、アートといってさしつかえないはず。

では、アートって、何だろう? 

通常、私たちは、アート=artという言葉を、「芸術(美術)」という意味で使用していますよね。だけど、実は、アート=artという言葉には「技術・技法」という意味もあるということを、ご存知でしょうか? と言うか、実はむしろ、そちらのほうがより語源に近いのです。artの語源は、ラテン語のars(アルス)、さらにその語源は、ギリシア語のtechne(テクネー)。つまり、自然に対しての「人工」、そしてそのための「技術やワザ」、というのがそもそもの第一義だったわけです(今だったら、英語のskillとかtechniqueに近いのかもしれませんが)。

そう考えると、アートというものは、「芸術」うんぬんの前に、まずはともかく、「技術」「スキル」「ワザ」ありきだ、と。

どれだけ、その技術を磨いてきたか、どれだけそのスキルの鍛錬を積み重ねてきたか、どれだけそのワザについて試行錯誤してきたか。当たり前のようですが、まず、そこが根底にあってこそ。そうした技術の蓄積や鍛錬が土台にあってこその芸術だ、ということをまず最初に確認しておきたいといと思うのです。

なぜそんな当たり前のことを言うのか? というと、技術レベルでの評価ナシでの、個人的な感想や印象論として「芸術」が語られることが多いような気がするから(もちろん、日常会話レベルならそれでいいのですけども)。また、それほど技術がなくても自己表現=「芸術」「アート」と称していいじゃない、というような流れがあるように思うからです(もちろん、教育や教養やビジネスとしてはそれでいいのですけども)。

でもそれが慣習になってくると、「芸術」と「技術」とは別のものということになり、それがさらに高じると、「芸術」と「技術」は切り離して考えるべき、というべき論にもなりかねない。それはちょっと違うかな、と常々思います。

 

 

北斎の作品は、「芸術」なのか?

 

先ほど、技術の蓄積が土台にあってこその芸術だ、と書きましたが。そうすると、じゃあ、その「芸術」って何? という話にもなりますよね。

芸術とは、「芸術家の自己表現であり、作り手の魂が込められた作品であり、人々を感動させ、人々の価値観をも変えてしまうような創造物」である…というのが現在における「芸術」の説明になるかと思いますが、これは、比較的新しい、近代以降の概念です。

たとえば、今では世界的に偉大なアーティストとして知られている、江戸時代後期に活躍した北斎は、生涯、あくまでも職人絵師として生きたのであって、芸術家として生きたわけではありませんでした。

でも、北斎の人生をたどって見ると、もう現代人の私からしたら「芸術家そのもの」としか言いようがないほど芸術家スピリットの塊です。オモシロ奇人変人なところも、典型的すぎるほど芸術家そのもの。(ホントにオモシロ奇人なので、ぜひ以下の記事をお読みくださいませ。↓)


さらに、北斎の絵を見れば、もう、岡本太郎じゃないけど、「芸術は…爆発だ!」と口走ってしまいそうになるくらい、「芸術そのもの」。つまり、現代に生きている私たちは、北斎に、いわゆる「芸術」を感じざるを得ないわけです。

となると、じゃあ、その、私たちが否応なしに感じてしまう、いわゆる「芸術」の正体って一体何なんだ? と。

ものすごく乱暴な説明であることは承知ですが、私はこう思ってます。

現在、私たちが「芸術」と呼ぶものの本質は、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。


 

 

北斎の『神奈川沖浪裏』を見たとき、私たちは何を感じるか?

 
と、ちょっと論が先回りしすぎました。

たとえば、北斎の有名な『神奈川沖浪裏』を見たとき。私たちの内面には、どのようなことが起こるでしょうか?

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ああ、この魂の震え! この感動の炎! 私をこんなに熱くさせる凄まじいエネルギーを持ったこの作品! これこそ、まさに、芸術だ!

…と、素晴らしい作品(それが絵でも文学でも漫画でも映画でも踊りでも歌舞伎でも何でも)に出会うたびに、私はそう思います。割と、しょっちゅう、感動してます(笑)。そして、自分がその芸術によってどれほど心動かされ、自分がどのように何かを感じ、何を考えたのかについて、なにかもう言いたくてたまらなくなります。

もちろん、「この構図は」「この浪の飛沫の表現は」「この富士山が極端に小さく描かれているこの効果は」などなど、北斎の高い技術について語ることもできます。だけど。技術の分析だと、この震えるような感動を、もうぜんぜん、言い表せない。だって、こんなに感動で胸がいっぱいなのに、技術とか構図とかそんなことじゃないんだよね! …それで、ついつい、自分がどう感じたのかということに夢中になって、技術をしっかり見て評価することがなおざりに…ということは、結構、多いのではないでしょうか?

確かに、「芸術」を受けとめて味わうにあたって、「技術」うんぬんは枝葉末節です。「技術」は、「芸術」成立のための絶対条件の土台ではあるけれど、本質ではない。


それはそうなのです。だけど、しかし、それでも、まず最初に確認しておきたいのは、この感動を生み出した「芸術」の土台になっているのは、あくまでも、北斎が一生をかけて異常なまでに執着して磨き上げてきた「高度な技術」である、と。そのことは、絶対に忘れてはいけないと思います。

 

 

「なにか」が無ければ、「芸術」ではない!

 

と書くと、「じゃあ、高度な技術さえあれば、感動できるのか?」「じゃあ、高度なスキルさえあれば、芸術なのか?」と言われるかもしれませんが、もちろん、それは違います。「技術があって上手なのは認めるけど、面白くないのよねぇ、感動がないのよねぇ」ということ、よくありますよね?

先ほど、ちょっと先走って、

「芸術」とは、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。

と書いてしまいましたが。

それほど、受け手の心を震わせるほどの大きな感動を与えるには、「高度な技術・スキル」だけでは、やはり足りないのです!

もちろん、「高度な技術」があることは絶対条件ですが、さらにその上に、プラスアルファである「なにか」が必要になる! そうです、サムシング、ってやつです(英語でもsomethingには、「重要なこと」か「真実」などの意味がありますが)。

なにか」とは、たとえば、その作品が醸し出す空気・ムードのようなものだったり、抽象的なことだったり、形而上的なことだったり、具体的に明言するのはとても難しいもの。だけど、「確実に感じることができるもの」です。

さらに言えば、それは、個々の作り手によって、全く違うものだったりします。現代的な言い方だと、「個性」としか言いようがないような。それは、一面では、作り手の「クセ」とか「偏り」とか「執着」とか「偏愛」とか「」とか、そう呼ぶしかないようなものかもしれません。それは、一面では、作り手本人も「やむにやまれぬようなもの」とか「できることなら解放されたいようなもの」なのかもしれません。

でも、そうしたものと接したときに、日常生活とは別の次元で、(自分以外の)人間と魂が共振することがあるし、生きることの本質にふと触れたような気がすることがある。それを私たちは「感動」と呼んだりしているのでしょうけれど、それが「芸術」の肝(キモ)なのではないでしょうか。

「芸術」に奥深さ、深遠さ、神秘性を感じるのだとしたら、この「これとハッキリ具体的に掴むことはできないけれども、それでも確実に感じる、このなにか」の存在があればこそ。

それこそが、「芸術の本質」だと思うのです。

 


 

「受け手の感性や解釈」もまた、「芸術」をつくる

 

「芸術」が成立するには、「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」が必要である。異論はあるかもしれませんが、一応、そうだと仮定して。だけど、これだけでも、まだちょっとだけ、足りない。「芸術」が成立するには、実は、あともうひとつ、とても小さいけれど、でも確かに必要なものがある。

それが、「受け手の感性・解釈」です。

「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」によって創造された作品を受けとめる、受け手の「感性・解釈」。これによって、作品は、「芸術」になったり、「芸術」にならなかったりも、する。

わかりやすい例をあげてみると、現在「文句なしに万人が認める素晴らしい芸術」として価値を認められているものが、長い間、全く評価されずに埋もれていた…という例には、いとまがありません。

すぐに思いつくところでは、たとえば、ヴィヴァルディは生前はとても人気がありましたが、死後100年以上(1700年中期〜1800年代末期くらいまで)、一般からは忘れられていました。『四季(ヴァイオリンコンチェルト集)』なんて、あんなに分かりやすくて楽しい曲、きっと「ポピュラーミュージック」としてしか見なされなかったんだろうなぁ、と勝手に思ってます(笑)。

ちなみに、ヴィヴァルディ再評価のきっかけとなったのは、これもまた、死後100年以上すっかり忘れられていたバッハの再評価がきっかけでした。バッハは音楽専門家には知られていましたが、一般には古くさい作曲家として(音楽にも流行があるので)ほとんど忘れられていたそうです。だけど、1829年にメンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を演奏したのをきっかけに、バッハが再評価され、関連してバロック音楽というジャンルも再評価されていった。

絵画でもそういうことはよくありますよね。たとえば、ファン・ゴッホとかアンリ・ルソーセザンヌなど、生前は全然評価されなかったのに、死後に芸術としての評価がウナギ登りとなったよい例です。

と、こういう話をしているとキリがないのでやめますが、そうしたエピソードを知るにつけ、「芸術って何だろう?」と、いつも思うのです。作品じたいは全く変わっていないのに、評価は、時代によっても変わるし、人によっても変わってしまう

作品は作品としてこの世にあるけれども、それを「芸術だ」と判断するには、どうしてもそこに「受け手の感性や解釈」が必要になる。良いとか悪いとかではなく、ただ、「そういうもの」なんだろうなと。

そして、言い方を変えれば、「受け手」もまた、「芸術」をつくる小さな力となり得るのだ、と。

 

 

自分には自分なりの「芸術」があってもいい、ただし勉強はしなければならない、という話

 

もちろん、だからと言って、「芸術」というものの価値を下げたいということではないですし、また、必要以上に「芸術」を持ち上げるつもりもありません。ただ、「そういうもの」だと認識しておくことは、大事なことだと思うのです。

そして、「そういうもの」だと認識しておくと、ちょっと良いことがあると、私は思ってます。そのひとつに、他人の(特に権威のある方々などの)言説を、すこぉしだけ、疑ってみることができるようになる、というのがあります(笑)。

たとえば、歌舞伎のレビューなどで『先代と比べるとお話にならない。不出来。』とバッサリ切り捨てているのを目にして、「私、こないだ見に行って感動したんだけどなぁ。でも、こんなプロの評論家が書いてるんだから、私が間違ってるのかも…」ってこと、ありますよね? あれっ、ないですか? 特に、歌舞伎評論って、ほかのジャンルに比べて、バッサリ切り捨て系が多いのが、ちょっと不思議でして。って、そんなことはまぁ置いておいて(笑)。

とにかく、「芸術」の評価というのは、絶対ということは決してなくて、必ず「受け手個人の感性・解釈」が含まれているものだ、と思うのです。

そう考えると、その人その人それぞれの「芸術」があり得ることにもなりますよね。△△さんには△△さんなりの感性・解釈による「芸術」があるし、◯◯さんには◯◯さんなりの感性・解釈による「芸術」がある、と。だから、自分がそう感じたのなら、そう感じた自分なりの「芸術」がある、と。どちらが良い悪いではなくて、「そういうもの」なのではないか、と思うのです。

なんてことを書くと、「じゃあ、私の感性とやらで、私が感じたまま、好きなように芸術を評価しちゃってもいいのよねー」って話になりかねないので、それは違う、ということも、強く言っておきたいです。



というわけで、実は、話は最初に戻ります。

最初に、芸術は、何はともあれ、「高度な技術・スキル」の蓄積が土台にあってこそ、と書きましたが。

それと同じように、芸術を受けとめ評価する側にも、その技術・スキルを見分け、理解し、判断するための「技術・スキル」が必要なのではないでしょうか? つまり、評価する側も、それなりの勉強が必要だ、と。学ぶ姿勢が大切だ、と。

もちろん、あくまでも、理想です(笑)。実際問題で考えたら、シロウトはプロの方々と同じような修行や勉強なんてなかなかできないし、そこまでやるべきとは言っていません。

でも、受け手にも、そのくらいの謙虚さや真剣さがあってもいいし、そのくらいの「理想」があったっていい。そう、最低でも「理想」を持っているだけでも、違うんじゃないかな、と(希望)。

というわけで、不勉強な自分を擁護するわけではありませんが、「理想」だけは持ち続けつつ、今年もいろいろなところで「感動」したいな! とそう思うのです。




サイトをお引っ越しいたしました!

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2017年新年早々、旧サイト「色気と超人」から、コチラにお引っ越ししました。名付けて、「井嶋ナギの日本文化ノート」です。

実は、旧サイト「色気と超人」はwordpress で地道に作っていたのですが、正直言って、wordpressのメンテナンスなど少々重荷になってまして…。思い切って、はてなブログにお引っ越しを決意。

旧サイトのドメイン nagi-ijima.com は、そのまま引き継いでおりますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます!


というわけなのですが、実は、よく把握しないまま移転作業を急いでしまったため、なんと、googleのインデックス(googleで検索したら出てくるランキング等)の引き継ぎに失敗してしまいました…(泣)。すこし(いや、だいぶ)悲しいです。

気を取り直して、またゼロから新ブログをスタートしようと思っていますが。ひとまず、自己紹介代わりに、旧サイトで特にアクセスが多かったページを、幾つかご紹介させていただきますね。よろしかったら、ぜひぜひ覗いて行ってくださいませ〜!




【建築】
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その1
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その2
■ 飛田新地「鯛よし百番」にて、大正期の遊廓建築を見る。その3 もしくは、江戸〜戦後にかけての大坂の遊郭の歴史。


【浮世絵】
■ 【日本を知るための100冊】007:飯島虚心『葛飾北斎伝』 〜北斎の強烈すぎる自負心と、そのエピソードについて。
■ 北斎80歳代の超人ぶりについて。 〜長野県小布施にて、北斎の肉筆画を見た記。
■ 「肉筆浮世絵展」に行ってきました。 〜英泉のアバズレ美と、表装の美。


【映画】
■ 太地喜和子ストリッパー3部作、『喜劇 男の泣きどころ』『喜劇 男の腕だめし』『喜劇 女の泣きどころ』のススメ。
■ 早稲田大学オープンカレッジ講座「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです。 〜任侠映画講座、開催しました!
■ 仁侠映画について、その2。『緋牡丹博徒』での華麗なる手本引き、もしくは、ややこしい任侠映画タイトルを整理する。
■ 仁侠映画について、その3。 博奕と893の歴史について、もしくは修行を愛する日本人論。


【歴史 - 日本史】
■ 今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その1 〜平安時代末期と妖しい人間関係を楽しむ!
■ 今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その2 〜王家=天皇家の人々の「闇」っぷりが凄い!
■ 今更ですが、大河ドラマ『平清盛』を見ましたの記。その3 〜今度こそよーーくわかる保元の乱!


【キモノ】
■ 長野須坂「豪商の館・田中本家」に行ってきました! 〜婚礼衣裳としての打掛けについて。
■ 上村松園の描くキモノは意外と「粋」好み? 〜長野市「水野美術館」にて。


【歌舞伎】
■ 歌舞伎座「一幕見席」のススメ。もしくは、4階当日券の購入方法について。
■ 踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座
■ 玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲みの謎について。
■ 「大阪松竹座」「新歌舞伎座」の建築様式と、関西歌舞伎の栄枯盛衰について。


【日本を知るための100冊】

■  01:岡本太郎『日本の伝統』
■ 002:山崎正和『室町記』 ~乱世を生き抜くための秘訣について。その1
■ 002:山崎正和『室町記』 ~乱世を生き抜くための秘訣について。その2
■ 003:折口信夫『日本藝能史六講』 ~鎮魂と快楽の足拍子について。
■ 004:岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』 ~「何か決定的なもの」をめぐって。
■ 005:宮尾登美子『錦』 ~「正倉院模様」の謎と、帯ブランドの最高峰「龍村」について。
■ 006:高遠弘美『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』  〜年齢を重ねることで到達できる領域について。
■ 007:飯島虚心『葛飾北斎伝』 〜北斎の強烈すぎる自負心と、そのエピソードについて。




そのほかの記事については、以下をご覧くださいませ。



今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます…!

歌舞伎座「一幕見席」のススメ。もしくは、4階当日券の購入方法について。


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先日、今月の歌舞伎座が素晴らしすぎた〜!という記事を書きましたが(→「踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座」)、昨日、ふたたび同じ踊りを見てきました! 今回は「一幕見席」で。そう、前回の記事で、最後のほうでチラッと触れた「一幕見席」です。

実は、この「一幕見席」、知っている方が意外と少ない、ということに最近気が付きまして。「それはもったいないことだなぁ」と心底思い、勝手に一幕見席普及委員会発足(会員は私だけ)。そんなわけで、今回は「一幕見席」についてご紹介したいと思います!(もちろん、歌舞伎に詳しい方は「そんなこと知ってるよ」ということばかりですので、どうぞスルーしてくださいませ…)



一幕見席って、なに?


一幕見席(ひとまくみせき)」とは、文字通り、「(すべての幕ではなく)ひと幕だけ見る、ということができる席」のこと(「幕見席(まくみせき)」「幕見(まくみ)」とも言います)。

たとえば、12月歌舞伎座の第三部では、『二人椀久』と『京鹿子娘五人道成寺』の2演目が上演されていまして、通常のチケットを買った場合、この2演目を鑑賞することになります。一方、「一幕見席」で、となると、『二人椀久』だけ見る、または『京鹿子娘五人道成寺』だけ見る、もしくは両方とも見る、といったことがそれぞれ可能になるんです! これ、すごい親切ですよね? だって、「すべて見るのはおっくうだけど、一つだけなら見てみたいな」という「ワガママなツマミ食い」が許されるんですからー。ありがたや〜。

その代わり、いろいろと制約はあります。


「一幕見席」のルールは、以下。


当日券のみ。予約はできません。

自由席のみ(90席)。指定席はありません。早いもの順です。

■ 自由席が確保できなかったら、立ち見(約60人)になります。→ペタンコ靴必須!

■ 「一幕見席チケット」は、いつでも買えるわけではありません。幕ごとに、「一幕見席チケット」の販売開始時間が設定されています。なので、おめあての幕の「一幕見席チケット」の販売開始時間まで、歌舞伎座の外で並んで待ちます。→冬は防寒具必須!夏は水分必須!

■ 同一「部」内の連続した幕であれば、まとめてすべての幕の「一幕見席チケット」を買うこともできます。(つまり、今月の第三部なら、第三部内のすべての幕のチケットを、最初にまとめて買うことも可能)

■ 「一幕見席チケット」には番号がふってあります。最終的には、番号順に入場します(公平です)。

4階席、いわゆる「天井桟敷」です。→オペラグラス必須!

価格はリーズナブル。一幕につき1000円ほど。長い演目だと一幕2000円も。

チケットは本人分のみ。他人のチケットは購入不可です。



というルールになっております! どうでしょう?(結構、慣れるまでフクザツですよね…)



いざ、一幕見席で歌舞伎を見てみよう!


ふーん。でも、イメージが湧かない…という方のために、カンタンに、バーチャル一幕見ツアーを以下に開催!


まずは、おめあての幕の「一幕見席チケットの販売時間」知ることが大事です。歌舞伎座では毎月、上演演目が替わるので、月の初めになると、サイト「歌舞伎美人」にて「幕見席の案内」が発表されます。まずは、チケットが発売される時間をチェックしましょう!

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↑ こんな感じで、「一幕見席チケットの発売時間」をサイトで確認。幕ごとに、「一幕見席チケットの販売時間」は異なります!



いざ、歌舞伎座へ!

「一幕見席チケット売り場」は、歌舞伎座の正面左側にあります。

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窓口の上に「一幕見席切符売場」とあります。

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↑ 係の人が立っているので、わからなかったら聞いてみるとよいです(とても親切です)。



ここが、「一幕見席の入口」です。

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↑ 左のほうに、「一幕見席チケット」が発売されるのを待っている人たちが、並んでいます。赤い毛氈を敷いたベンチを出してくれるので、座って待つことができます!(昔は、ベンチは4,5人分しかなくて、あとは全員立ったまま並んでたんですよ…スパルタだった…)

ちなみに、「一幕見席チケット」販売開始時間より、どれくらい前に並んでいればいいのか?問題ですが。平日でしたら、「一幕見席チケット」販売開始時間より、20〜30分前に並べば、席は確保できるかと思います(土日はもう少し早く行ったほうがいいかも)。

ただし、注意すべき点があります。「一幕見席」では、一幕だけでなく、複数の幕を続けて見ることもできます(これを「通しで見る」と言います)。この場合、複数の幕の「一幕見席チケット」を、あらかじめ先にまとめて買うことができちゃうんですね(これを「通しで買う」と言います)。…ということは……、もしアナタが途中からの幕の「一幕見席チケット」を買いたい場合、「それ以前の幕からずっと見続けている人が結構いるかもしれない…」「その場合、既に席が埋まってるかもしれない…」ということを考慮に入れて、並ぶ時間を決めたほうがいいかもしれません。

特に、人気役者や人気演目の場合は、できるだけ早く並ぶに越したことはありません。もしくは、安全策をとって、最初から「通し」で見たほうがいい場合も…。

ちなみに昨日、私は幕見席で『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』を通しで見ましたが、『二人椀久』だけ見て帰った人は、ほっっとんどいませんでした…(つまり、ほぼ皆さん「通し」で見ていたということ)。『京鹿子娘五人道成寺』から来た方は、立ち見になった確率高いです。でも、まぁ、今月は玉さま舞踊公演なんで(笑)かなり特殊事例かと思いますが…。



で、「一幕見席チケット」販売開始時間になったら、並んでいる順に、切符売場窓口でチケットを購入します。通しで見たい場合は「通しで」と言いましょう。

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↑ 私が昨日購入した「一幕見席チケット」。『京鹿子娘五人道成寺』は豪華演目のため、ちょいお高めの2000円。『二人椀久』は30分くらいですので、1000円でした。最終的には、ここに記された番号順に入場することになります。


チケットを無事購入できたら、ひとまず、その幕の上演開始時間の20分前になるまで、時間をつぶしましょう。近場では、歌舞伎座のすぐとなりに、プロントがありますよ(混んでますが)。


上演開始時間の20〜30分前になったら、先ほどの「一幕見席入口」から歌舞伎座に入ります。

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赤いエレベーターで「4階」へ!(昔は、ひたすら急勾配の階段をのぼらされたんですよ…スパルタだった…)。

4階に到着すると、係の方が「チケットに記されている番号順に並んでください」と指示してくれます。しばし、ロビーで番号順に並んで待ちます。ちなみに、ロビーはふっかふかのカーペット敷きなので、立っていてもそれほど疲れません。


さて。いよいよ、入場です!

番号順に劇場内に入ります! 椅子取り合戦です!!!

…というのは大げさです(笑)。番号順に入場するので、心配ご無用です。


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↑ 一幕見席のようす。あまり良い写真でなくてすみません。天井に限りなく近いですね。

一幕見席の椅子は、通常の席と同じ、ふかふかの上質の椅子です(昔は、硬いベンチしかなかったんですよ…スパルタだった…)。椅子席は2列です(90席)。

立ち見の場合は、(左写真のように)椅子席の後ろに立って観劇します。実は、立って見るとよく見えるので、疲れないスニーカーとかでしたら、意外とオススメです!




そのほかの注意事項としては、以下。

「通し」でチケットを買った場合
「通し」で続けて見る場合、そのまま同じ席にいてOK。ひとつの幕が終わると、係の人が「次の演目もご覧になる方は、次の幕見席チケットをお見せください〜」と言って、チケットをチェックしに来てくれます。

オペラグラス絶対必須!
歌舞伎座内ではオペラグラス貸出しはありますが、一幕見席でのオペラグラスの貸出はありません(昨日知りました)。ただし、限りなくオモチャに近いオペラグラス(3倍)は売っています。が、昨日購入されたお友だち曰く、「ほとんどピントが合わない」とのことでした…(泣)。

筋書きは売っています
筋書き(プログラム)は売っています。舞台写真(ブロマイド)やグッズは売っていません。

イヤホンガイド・字幕ガイドあります
難しそうな演目のときには、イヤホンガイドや字幕ガイドも借りられます(有料)。英語版もあるので、海外の方でも安心。

ドリンク自販機はあります
ドリンクは買えますが、食べ物は売っていません。昼や夜のごはんタイムに重なる場合は、コンビニでおにぎりやパンを買って、幕間(休憩時間)に食べるとよいです。歌舞伎座は、国立劇場などと違って、座席で飲み食いしてもOKなんですよ。ステキ!

幕見席は4階のみです
ほかの階(1階〜3階)には入れません。幕見席チケットで入れるのは、4階のみ。

■ そのほか詳細は、松竹株式会社「一幕見席について」へ。




昔は、「一幕見席」って、「通」の人たちが多い席だったんですよね(もちろん、今もそうですが)。20年ほどの前の大学生時代、お金がなかったので、幕見席でよく見ていましたが、幕見席の端っこに、激シブな声で掛け声をかけている方がいたものです〜。絶妙なタイミングで発せられる、ノドの奥から絞り出したみたいな、カスレて、シナびた、カッサカサの(笑)、シブ〜〜い声の掛け声、あまり聞かなくなったなぁ…。

最近の「一幕見席」は、外国人観光客の方々がとても多くなっているようす。でも、海外の方だけでなく、旅行で東京を訪れる日本の方々にも、ものすごーくオススメ!(意外と知られていないみたいなので、声を大にして言いたい)

もちろん、あらかじめチケットを買っておくほうが、ゆっくり見られるので、可能ならそのほうがいいとは思います。が、そういつも前もって予定が立つわけでもないですよね…。そんな予定がたたない忙しい方や、ちょっとだけ歌舞伎を見てみたいという方にもピッタリかと。「一幕見席」で歌舞伎を見られるのは、東京の歌舞伎座だけ。ぜひチャレンジしてみてください♪






—— 関連記事 ——


■ 2016年 玉三郎×勘九郎『二人椀久』 玉三郎×他『京鹿子娘五人道成寺』を見た記事
踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座

■ 2006年 玉三郎×菊之助『二人椀久』を見たときの記事
【歌舞伎・日舞】 『二人椀久』@歌舞伎座

■ 2014年 玉三郎×七之助『村松風二人汐汲』『二人藤娘』を見たときの記事
玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について。

踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座


今月12月の歌舞伎座初日に行ってきました! で…これは…ちょっと…素晴らしすぎて…興奮のあまり、久しぶりにブログを書きます。


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『娘道成寺』と『二人椀久』を、
人間国宝・玉三郎丈が踊る!


今月12月の歌舞伎座は、「第一部」「第二部」「第三部」の3部制。そのなかの「第三部」初日を見てきたのですが、演目がとにかく好みど真ん中すぎて…! 第三部の演目は、以下。

■ 長唄舞踊『二人椀久』
  出演:玉三郎、勘九郎
■ 長唄舞踊『京鹿子娘五人道成寺』
  出演:玉三郎、勘九郎、七之助、梅枝、児太郎


両演目とも、お芝居ではなく、踊りです。踊り好きなら「キャー!」と言わずにおれない、そんな凄いラインナップなんですよ。このラインナップがどう凄いのか、カンタンに列挙しますと。(以下、長いので『娘道成寺』と省略して書きます)

・『二人椀久』も『娘道成寺』も、日本舞踊の超代表作!
・『二人椀久』も『娘道成寺』も、楽曲(長唄)が素晴らしい!
・『二人椀久』も『娘道成寺』も、人間国宝・坂東玉三郎丈が踊る!
・『娘道成寺』は、通常は1人で踊るが、今回は総勢5人で踊る!

これがどんな感じなのかと言うと、えーと、少女漫画と大映映画でたとえれば、『ベルサイユのばら』と『日出処の天子』の2演目を、若尾文子と岸田今日子と田宮二郎で上演! みたいな感じ(笑)。



歌舞伎になじみのない方にこそ、
「踊り」をオススメしたい理由


特に、この『二人椀久』と『娘道成寺』は、「歌舞伎を初めて見る人」や「踊り(日本舞踊)になじみのない人」にこそ、オススメしたい! と、強く主張したいです。

というのも、世間では、「歌舞伎」というと、『忠臣蔵』のような勧善懲悪なお芝居のイメージや、『暫(しばらく)』のような隈取した荒事のイメージが、あるようなのですが。……いやいや、歌舞伎って、夢のように華やかで美しいレヴューのような演目もあるし、肉体を鍛え上げたダンサーによるスリリングなダンスが見られる演目もあるんですよ!

実は、歌舞伎において、「踊り(日本舞踊)」は、「お芝居」と並んで、重要不可欠なものなんです。あまり言われていないような気がするのですが、実は、

 歌舞伎 = お芝居 + 踊り



「踊り」は、決して「お芝居」の添えものではなく、どちらが欠けてもダメなのです。

お芝居が(ある程度は)頭で理解するものだとしたら、踊りは五感を駆使して体感するもの。見る、というより、体感する、なんです。だって、踊りの演目を構成する要素は、つまり、MUSIC & DANCE ですから。とにかく、「キャ〜ウットリ〜」「うわ〜気持ちいい〜」「何だか、この音に乗って踊りたくなる〜」みたいな感じで、ただただトランス状態に浸ればいい。

そう考えると、踊りこそ、歌舞伎初心者にうってつけなのではないでしょうか? よく、「歌舞伎って難しいんでしょ?」「前もって勉強しなきゃわからないんでしょ?」と聞かれるのですが、確かに、そういう演目もありますよね。お芝居などでは、ある程度の知識(歴史的背景など)があったほうが、より理解しやすいものもある。でも、踊りに関しては、理屈じゃない。ただ音楽とダンスを体感すればいいのですから、難しいことなんてない、と思うのです。



250年以上かけて
練り上げられてきた踊りの舞台


『二人椀久』も『娘道成寺』も、非常にポピュラーな演目なので何度も見ていますが、今回しみじみと感じたことがありました。それは、目の前で繰り広げられている舞台が、何百年もかけて受け継がれ、何百人という(過去の)人間の手によって練り上げられてきた、その「長い歴史の積み重ねの結果」だということ。

たとえば、これらの演目の初演はというと、

1753年(宝暦03)『京鹿子娘道成寺』
1774年(安永03)『二人椀久』
 
つまり、『娘道成寺』は263年前、『二人椀久』は242年前! もちろん、曲も振り付けも演出も、初演当時100%そのままというわけではありません。特に、振り付けや演出は、役者や時代によっても変化します。だけど、曲に関しては、初演時につくられた曲が改訂改良されながらも、現在まで受け継がれている。つまり、250年前の江戸の人々が熱狂した音楽を、今も体感できるわけです。純粋に、ワクワクしますよね!

1750年〜1775年あたりと言えば、江戸時代中期。ザックリですが、田沼意次が活躍した、10代将軍徳川家治の時代。文化人で言えば、1750〜60年あたりに平賀源内鈴木春信が活躍し、1774年には杉田玄白・前野良沢らの医学書『ターヘル・アナトミア』出版、というあたり。(ちなみに、早稲田の講座に来てくださった方は、キモノ・髪型の形で時代をなんとなくイメージできるかと思います♪)

ちなみに、同時代の西洋の状況はと言うと、1750年にJ・S・バッハが65歳で死去、1755年にマリー・アントワネットが誕生、1756年にモーツァルトが誕生、1775年にアメリカ独立戦争。…うんうん、まさに、ロココ時代ど真ん中ですね!

たとえば、『京鹿子娘道成寺』だったら、山台にズラリと並んだ長唄連中・囃子連中の生演奏、何度聴いても聞き飽きることのない名曲、さまざまな踊りの技巧を織り込んだ振り付け。華やかでゴージャスなキモノにダラリの島田髷、何度も「引き抜き」で衣装が変わり、小道具も、中啓手ぬぐい鞨鼓鈴太鼓と変わってゆく…。

そうした光景すべてが、ここ最近のアイディアで生まれたというようなものではなく、約250年もかけて、数え切れないほどの人たちによって、磨き上げられ、練り上げられ、ブラッシュアップされてきた結果。それが、目の前の舞台で繰り広げられているということ、それを、自分が目の当たりにできているということが、奇跡のような、有り難いことに思えてなりませんでした。

舞台って、「その場」「その時」でないと体感することができない、はかない藝術だなと思います。もちろん、今は、映像という手段があります。ありますけど、でも、実際にその空間にいるのと、映像を見るのとでは、全く違う。好きなミュージシャンのライヴ映像を見るのと、実際にライヴに行くのとでは、1000万倍くらい違いますよね? それと同じなんですよね。



『京鹿子娘五人道成寺』は、
華麗な和製レヴュー!


特に、今回の『京鹿子娘五人道成寺』は、必見!

通常の『京鹿子娘道成寺』は、1人で踊るのが標準。最近では、玉三郎丈と菊之助丈による2人で踊る『京鹿子娘二人道成寺』がありますが、5人で踊る『京鹿子娘五人道成寺』なんて、今度いつ上演されるかわかりません! 5人で踊る『娘道成寺』は、旧・歌舞伎座の閉会式で1度だけ上演されましたが(私は未見ですが)、それ以外では、今回が初めてのはず。これを見逃すのは、あまりに惜しい! 

当代きっての役者たちが、入れ替わり立ち替わり現われて、踊ってくれる、この趣向、最高に楽しかったです! ただひたすら、華麗で、贅沢で、ゴージャスで、ドラマティックで、楽しい。そんな華麗な和製レヴューを体感しないのは、本当にもったいないと思うのです。


以降、ちょっと細かい話になりますが、今回の『娘道成寺』で、5人の役者たちがどのパートを担当していたのか? についてもメモしておきますね。

道行:七之助、勘九郎
問答:七之助
乱拍子・中啓の舞:玉三郎
手踊り(言わず語らぬ〜):玉三郎
毬唄(恋の分里〜):玉三郎、七之助、勘九郎、梅枝、児太郎
花笠踊り:児太郎
クドキ(恋の手習い〜):玉三郎
鞨鼓の踊り:七之助、勘九郎
手踊り(ただ頼め〜):梅枝
鈴太鼓の踊り:玉三郎、七之助、勘九郎、梅枝、児太郎
鐘入り:玉三郎、七之助、勘九郎、梅枝、児太郎


(もし間違えがありましたらすみません。今月は3回は見に行く予定なので(張り切りすぎ笑)、随時確認しておきます。)

特に、中村屋兄弟(勘九郎・七之助)がどちらも女形として2人で踊る、というのは、かなり貴重なのでは? 上記にも書きましたが、「道行」と「鞨鼓の踊り」は、中村屋2人だけで踊り、拍手喝采でした。

「道行」では、(長唄ではなく)義太夫の、「恋をする身は浜辺の千鳥〜」という歌詞のところで、お化粧をする振りがあるのですが。衿もとから懐紙を出して、口に当て、紅のついたその懐紙をクシャッと丸めて、ポイッと観客席に投げるんですよ〜! おお〜〜っとどよめき発生(花道の西側のほうに飛ばしてました。いいなぁ〜)。玉様と菊之助の『娘二人道成寺』では、それはやっていなかったと思いますが、江戸時代にはそうした観客サービスをしていたそうなので、復活させたのかもしれません。

「鞨鼓(かっこ)の踊り」では、勘九郎と七之助の踊りのクセの違いがわかるのも、すごく面白かったです。勘九郎は普段は立役だから、女形の踊りでも、腕の動かし方とかすごく動きが大きいなぁとか。七之助は何から何まで可憐で可愛くて、「ふつうに町娘」みたいだなぁ、とか。

それから、『娘道成寺』で一番の見せどころなのが、「クドキ」の部分。甕のぞき色の絹の手ぬぐいを手に、玉様が、しっとりと踊ります。いや…、踊るというか、もう、「存在している」という感じ。場内、水を張ったようにシーーーンとして。皆が息をとめたように、静かに、玉様の動きを見つめる、そんな「玉様劇場」。そんななか流れる長唄の歌詞は、「悋気(りんき=嫉妬)」だとか、「殿御(とのご)」が「悪性(あくしょう)」だとか、「恨み〜〜恨〜みて〜〜」だとか、かなりドロドロ(笑)。でも、玉様が踊ると、なにか「神聖・玉様劇場」に見えてくる不思議。



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というわけで長々と書きましたが、「でも、もうチケットとれないんでしょ?」と、思った方もいらっしゃるかもしれません。さっき確認してみたら、普通のチケットは(第三部に関しては)、二等席(11000円)より上の席しか残っていませんでした。

でも、当日ふらっと行って格安で見ることもできるんですよ!(立ち見の可能性もあり) それが、「一幕見席」。今月の一幕見席についての案内は、コチラ。歌舞伎座のサイトに「一幕見席について」という説明もあります。これについて解説するとさらに長くなってしまうので、改めて書きたいと思います〜! 

追記。一幕見席について書きました!
→「歌舞伎座「一幕見席」のススメ。もしくは、4階当日券の購入方法について。






—— 関連記事 ——


■ 日本舞踊や能狂言における「足踏み」「リズム」の気持ちよさについて書いた記事
【日本を知るための100冊】003:折口信夫『日本藝能史六講』 ~鎮魂と快楽の足拍子について。

■ 2006年 玉三郎×菊之助『二人椀久』を見たときの記事
【歌舞伎・日舞】 『二人椀久』@歌舞伎座

■ 2014年 玉三郎×七之助『村松風二人汐汲』『二人藤娘』を見たときの記事
玉様&七之助の『二人汐汲』 〜もしくは、あまちゃんと汐汲み女の謎について。

「KIMONO姫」No.14に、泉鏡花についてのエッセイを寄稿しております。


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お知らせです!

キモノ雑誌『KIMONO姫』最新号(No.14)にて、エッセイ「日本の美しい、魔法の呪文」を寄稿させていただいております!
 

KIMONO姫』最新号のテーマは、メイドインジャパン編! ということで、「日本の美についてなにか!」と編集長様におっしゃっていただき、思いついたのが、泉鏡花の美しい文章でした。鏡花の文章はどれも本当に、宝石をちりばめたように美しいのですが、なかでも美しくてすこし怖い、そして、キモノやファッション描写もたっぷりある『眉かくしの霊』を例にとりあげてみました。

日本に生まれて、日本で育って、日本語で生きてきて、よかった

と思わずにいられない、そんな体験についてのお話です。ぜひ、ご覧いただけたら嬉しいです!


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それにしても、『KIMONO姫』今号も、可愛いキモノコーディネートがてんこ盛りです♪

個人的には、巻頭グラビアでモデルちゃんが着ていた「MODERN ANNTENA のジャージ風ツーラインの無地キモノに、ゴールドのリーボックの厚底スニーカー」というスポーティなコーディネートが、かなり好み! あれ、カワイイな〜。

実は私、ジャージというものが、素材も、形も、大好きです。体操着みたいなスタイル、たまりません。ブルゾンとかスカジャンみたいな形のアウターも好きすぎて、同じ形のものばっかりいくつ買ってんだよ、っていう…(あの、たまに、普段着で会うと「えっ…なんか…イメージ違う」とか言われてしまうことがあるのですが、キモノのほうが私にとっては「特別」でして…)。

あと、桜井日奈子ちゃんが「キモノ×エプロン×たすき掛けで、お掃除コス」をしているページがあるのですが。あまりに可愛くて、しばし、ジーーーッと眺めてしまいましたね…。一体、何が違うんだろう?と思って(笑)。美少女って、すごいな…。






それと、泉鏡花関連・出版関連にかこつけて、もうひとつお知らせを。

2013年に、泉鏡花の『雪柳』という作品についてのエッセイを寄稿させていただいた、『冬の本 』(夏葉社)という本が、先日、増刷されたとのことです! この本、84人によるオススメの「冬の本」についてのエッセイを集めた、とても贅沢でカワイイ本なんです。

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しかも、書き手のラインナップを見てビックリですよ、山田太一、角田光代、又吉直樹、片岡義男、池内紀、木内昇、と、ビックネームがズラリ(敬称略)。なぜ私がそこに入っているのか、、はい、自分で思ってます…。

とにかく、ちょうど今の季節にピッタリです! ぜひ、ご覧くださいませ。





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■「『冬の本』(夏葉社)が出版されました。もしくは、衝撃的な読書体験について。

■ 2014年におこなった、"日本文学に描かれたキモノ"を探る講座について
早稲田大学オープンカレッジ「着物で読み解く名作日本文学 〜夏目漱石から、泉鏡花に永井荷風、有吉佐和子まで」のお知らせ

■ 「中目黒KAPUKI制作「かぷき本」のお知らせです。

■ 「「キネマ旬報」にて、若尾文子作品のキモノについて書いております。

■ 「キネマ旬報社刊『女優 夏目雅子』に寄稿しております。もしくは、『鬼龍院花子の生涯』を見よ!!!!




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