井嶋ナギの日本文化ノート

井嶋ナギ の日本文化ノート

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とんでもなく素晴らしい、四代目市川猿之助の踊り 〜歌舞伎座で『奴道成寺』を見ての記

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好きな人を好きだと気づくのって、実はちょっと難しいことだと思いませんか? 「なんだか気になる」「いつの間にか探してしまう」「いつも必ず見てしまう」という過程を経て、「あれ、私、好き?」「いや、別に好きってわけじゃないんだけど…」とか自分で言い訳しているうちに、アッと気づいた時には、「好きになっちゃってルー!」と認めざるを得ない。そういう、なかなか自己認識が遅れがちなタイプ、っていますよね(私)。

という前置きをして、告白します。

わたくしは、猿之助が好きです!!!! 

大ファンです!!!! 虜になりました!!!!(踊りの)



とにかく踊りがウマすぎる、猿之助の『奴道成寺』


というのもですね、今月(4月)の歌舞伎座の、市川猿之助による舞踊『奴道成寺』が、ほんとうにすばらしかった!!! あんな踊りを見せられたら、全面降伏状態。なにも言えません。とにかく、「私は、猿之助の踊りを、これから一生見ていく!」と強く思いました。それくらい、素晴らしかったのです。

特に、『奴道成寺』という踊りは、『京鹿子娘道成寺』のパロディ版。玉三郎さんが魅せるような美しく幻想的な世界とはまた違う、ユーモラスで可笑しくてウキウキするほど楽しい踊りなんです。『娘道成寺』とほぼ同じ曲を使うのですが、『娘道成寺』が女の踊りであるのに対して、『奴道成寺』は男である狂言師が踊るという(ちょっとふざけた)設定。で、そのなかで、面(おかめ、ひょっとこ、お大尽)を次々とつけかえながら踊るところが、最大の見せ場。猿之助が、次々と面をつけかえてその役に早変わりするところは、もう、100回くらい見たいほど見事でした。

歌舞伎や踊りに少しでも興味のある方は、「一幕見席」でぜひぜひ見に行ってみてください! 「日本の踊り」の楽しさを、たっぷり味わえることを保証します。「一幕見席」で見る方法については、以下をぜひ参考になさってくださいね。
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『黒塚』を見て、猿之助の踊りにド肝を抜かれた話


と、イキナリ冒頭から暑苦しくてすみません…。とにかく、猿之助丈の踊りの上手さといったら、ちょっとほかの人とは「次元」が違うんです。もちろん、ほかの歌舞伎役者さんも、そりゃあ子どもの時から英才教育を受けている方々ですから、とても上手です。だけど。そのなかでも、猿之助は、頭1つ分、抜きん出ている感じなんです。

私が猿之助の踊りに驚愕したのは、実は遅くて、2年前、2015年の歌舞伎座でした。玉様の『女暫』『蜘蛛の拍子舞』をお目当てに行ったのですが、たまたま見た、猿之助の踊り『黒塚』に度肝を抜かれまして…。そのときのtwitterでのつぶやきを発見したので、貼り付け。


なんかもう、ちょっと、すごすぎて、ボーゼン、というようすが伝わってきます(笑)。あまりにすごくて、涙ぐんでましたね。感動して。

この『黒塚』以降、とにかく、猿之助を見るのが楽しみになりました。いつもは3階席で節約する私が、猿之助の『義経千本桜』の四ノ切は、張り切って1階席の花道の真横で見ちゃったり(私にしては大フンパツです!)。私の数センチ横を、猿之助の狐忠信がサァーッと駆けていった後に、ふわーっと動いてきた空気の感触は、忘れられません。

…と、ハタから見たら、「充分、猿之助ファンじゃん!」って感じなんですが、私自身は「これを猿之助ファンと言っていいのだろうか?」と長らく悶々としておりました(笑)。というのも、「玉様、美しすぎる…! 神!」とか「キャー! 仁左衛門さん、ステキ〜〜! 愛人にしてほしい〜〜」みたいなファン心理とは、ちょっと違うんですよ。なんていうんでしょう、「あの踊りすごすぎるけど一体なに?」「あの体の動きどうなってんだ?」っていう、猿之助自身がどうこうっていうよりも、「猿之助の体がつくりだす芸」の凄さにただもう圧倒されている感じというか。サッカーとかの試合で、誰だかわからない外国人選手の凄いプレーを見て、「うわ今の何すげー!!」と思わず叫んじゃうような。究極を言えば、猿之助という役者のことは意識から消えてしまって、彼によってつくり出された「芸のかたち」に毎回、驚き、感動する感じなんです。

今年1月の、新橋演舞場でもそうでした。猿之助の舞踊『黒塚』を再び見まして、泣きました。絶品でした。このときのtwitterでのつぶやきも貼り付け。


圧倒されてしまって、自分のなかで消化しきれず、アワアワしている感じが伝わってきます(笑)。



猿之助の踊りは、どのように素晴らしいのだろうか?


そもそも、踊りについて言葉で語ろうとすると、どう説明していいものか、いつも悶々とするのです。

日本舞踊というものが、今の時代においてメジャーではないため、踊り用語を使って説明しても通じない、というハンデもあります。例えば、野球だったら、「ストライク」「フォアボール」「三塁打」とか、まぁ通じますよね? でも、踊り用語で「おすべり」「トン」「要返し」と言っても、一般的にはピンとこないですし。そうでなくとも、踊りの「技術そのもの」について、言葉で説明するのはとても難しい

踊りの評論のようなものを読んでも、どうも私がピンとこないのは、それが、「印象論」のようなものになってしまうことが多いからだと思うのです。つまり、「メタファー」を使って説明するしかない、というものになってしまう…。例えば、こういう感じ。「◯◯の踊りを見ている間、私の眼前には、花から花へと移り飛んでゆく蝶が見えた。確かに、それは存在したのだ」みたいな。もちろん、それが悪いとは言いません、そういった文学的な評論はうまくいけば素晴らしいと思うし、散文としての価値があると思います。でも、踊りの「技術そのもの」について語ることは、不可能なのだろうか? 

…そんなことを、今年1月に見た猿之助の『黒塚』を見たときに思ったんです。これを、この猿之助の素晴らしい踊りを、印象論だけで語っていいものだろうか? と。そうなると、「そもそも舞踊ってなんだろう? ひとまず、舞踊は芸術のひとつのジャンルだとして。じゃあ、芸術ってなんだろう? というか、私は芸術をどういうものだと考えているんだろう?」という疑問が次々湧いてきてしまって、その時に「芸術と技術について、マジメに考えてみた」という記事を書きました。

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この記事からセルフ引用しますが、私は「芸術」の基本的な定義を、以下のように考えています。

「芸術」とは、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ


どんなジャンルの「芸術」でも、まずは「技術ありき」。どんなに真剣に取り組んでいても、どんなに心がこもっていても、どんなに思いが深くても、高度な「技術」がなかったらそれでおしまい。人を感動させることはできないと考えます。

と、書くと、「でも、例えば、ヘタウマでも一生懸命取り組んだ成果を見て感動する、ということもあるんじゃない?」と言われるかもしれません。でも、それは「成果物」そのものに感動しているんではなくて、一生懸命やったその「人」に感動していたり(子どもの一生懸命さに感動する等)、自分の「過去の体験」が蘇って感動していることもあります(あるあるネタで感動する等)。それは全く別のことです(良い悪いではなく、ただ、違うものとして区別しました)。

そして、その技術というのは、とにかく地道な鍛錬の蓄積ナシでは、絶対にありえない。生まれつきの才能とか、親ゆずりの血だとか、そういうものは(遺伝子を解読してみければわかりませんが、全くないわけではないでしょうけれど)たいした差ではないと思っています。つまり、高度な技術というのは、ほとんどの場合、「この世に生まれてから、その技術の上達のために、どれだけの時間とエネルギーを費やしてきたか?」に尽きる。


ということを前提として、猿之助の踊りを見ると、「一体、この人は、どれだけの稽古を重ねて、こんなに踊りが上手になってしまったんだ?」と、恐ろしい気持ちになるんですよね。もちろん、歌舞伎役者の家の人は皆な、小さい頃から英才教育を受けていますから、うまくならないほうがおかしい、ということは言えますけど。

でも、そんな英才教育を受けた人たちのなかでも、猿之助の踊りは、「巧さ」でナンバー1だと思います。ただし、「巧い」とは違うべつの評価軸もあるので、ほかの役者の踊りが駄目と言っているのではありませんよ、念のため。(たとえば、「幻想美」「粋」なら玉様、「端正美」なら七之助、「色気」なら仁左衛門さん、「華」なら海老蔵、だと私は勝手に思ってます)


今月の歌舞伎座は、実は、私の踊りの師匠である花柳美嘉千代先生をお誘いして行ってきました。師匠はプロですから、踊りを見る目は正直とても厳しいです。その師匠が猿之助の『奴道成寺』を見てどのように仰るか? 私は楽しみにしてました。

で、今回の『奴道成寺』を見た直後。「素晴らしかった〜〜!」と、師匠も大絶賛。もちろん、もともと先生は猿之助の踊りについて「すごい」と仰っていましたが、「改めて、彼の踊りは、本当にスゴイ…」と。その後はしばらく、師匠と弟子で興奮さめやらず、踊り談議で大騒ぎでした。

花柳美嘉千代師匠に、「猿之助の踊りのどこらへんが凄いと思いましたか?」と尋ねてみたところ、以下のようなことを仰っていました。

■ 踊りを完全に「自分のもの」にしていること
■ 見る者を引きつけ楽しませようとする力・意識の強さ
手の指先足のつま先に至るまで、すべてに気を配っていること
■ それでいて余裕さえ感じさせるところ
力を入れるところと、力を抜くところの、メリハリが抜群
■ たまにドヤ顔でキメるところもあって、可愛さたっぷりなところ
■ 3つの面をあんなに数秒単位でこれでもか!というくらい頻繁に早変わりするのは、初めて見た

とのことでした。勉強になりますねぇ。プロの方は同じ踊りを見ても、私みたいなシロウトが見えない領域まで見えます。なので、先生に対していつも怒涛の質問攻めになってしまう私ですが、「プロの方はこういう視点で見ているのだなぁ」という新しい発見があるのが、いつもすごく楽しいのです。

ちなみに、私が私なりに感じた猿之助の踊りの凄さは、以下です。

■ 音楽にノリノリにノっていて、後ろに並んでいる長唄連中などの地方さんをリードする勢いだったこと
■ 何をやっても、どんなフリでも、どんな時でも、音とリズムと体が「一体化」していること
■ 言い換えれば、そのくらい自由自在に体をコントロールできること
■ 体幹が安定していて、どんな動きでもブレないこと
ムダがなく、ノイジーな動きがないこと

でしょうか、でも私の拙い言葉では、あの素晴らしさの万分の一も言い表せません…。

とにかく、素晴らしかった!(としか言いようがない) そうそう、拍手もいつもよりすごくて、万雷の拍手でしたね。あんなに大きな拍手は、毎月歌舞伎座に通っていても、本当に素晴らしい時にしか起こりませんから。やはり特別に素晴らしいものは、一般のお客様にも通じるんだなぁ、と、思った次第。私も、幕見席でまた見に行くつもり! あと2回は見たいかなぁ。行けるように頑張りたい。

猿之助の『奴道成寺』、今度またいつ見られるかはわかりません。とりあえず、現在41歳の猿之助の、パワーあふれる年齢での『奴道成寺』を見逃すな!!! と、煽っておこうと思います(笑)。




—— 関連記事 ——


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■ 2006年 玉三郎×菊之助『二人椀久』を見たときの記事
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【入門編】キモノの着付けに必要なものをリストアップしてみる。 〜もしくは、着付け小物がやたらと多い理由について

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今さらですが、あえて今、「着付けに必要なもの」について書いてみたいと思います!

というのも先日、とある場所で、早稲田大オープンカレッジ講座に参加してくださった方にバッタリお会いしまして。お茶でも飲みましょうよ〜とお誘いしてお話してたら、その方は20代とお若い方なのですが、「キモノを着たいのだけど、何を揃えればいいのか…(ネットや本を見ても)どれが本当に正しいのか分からなくて」と仰っていたんです。

ネットで検索すれば、着付けの情報は溢れていますよね。だけど、ここまで情報が多すぎると、「実際どれを信用していいのか?」となるのも、確かにそうだなぁ…と。

そこで、「最低限、この着付け小物があれば、普通にはキモノが着られますよ〜」ということを、改めて書いてみようと思いたちました。あくまでも、私の場合ですが! (もちろん、着付けをマスターされている方は、スルーしてくださいませ)



最低限これを揃えておけば大丈夫! 着付け小物リスト


【下着Level 1】
肌襦袢、裾よけ、足袋

【下着Level 2】
長襦袢 or 半襦袢
半衿(長襦袢or半襦袢に縫い付ける)
衿芯(半衿のなかに入れる)
腰ヒモ
伊達締め

【着物Level】
着物
腰ヒモ(ウエストベルトでもOK)
伊達締め(コーリンベルトでもOK)

【帯Level】

帯板、着付けクリップ、腰ヒモ2本ほど
帯枕、帯揚げ、帯締め

【その他】
草履(浴衣のときは下駄)
手ぬぐい(体形補正のためにあると便利)

************************

と、ザッとこのくらいの着付けグッズが必要になります! …なんだか「いっぱいあるな…」って感じがしますね(笑)。

こうした着付けの煩雑さを知ると、「キモノを着ていた昔の日本人は大変だったんだなぁ」と思ってしまうかもしれませんが、こんなに着付け小物が多くなってしまったのは、近代以降、なんですよね…(これについては、後述します)。

まぁ、それはともかくとして。それぞれの着付け小物について、画像でお見せしますね。というわけで、突然ですが、わたくしイジマナギが普段使っている着付け小物を、大公開〜!


1:下着Level 1

ひとまずは、素肌に身につけるレヴェルでの、下着です。


■ 肌襦袢(はだじゅばん)

f:id:nagi0_0:20170321222329j:plain 裸の上半身に直接着る、いわゆる肌着です。綿100%です。
私は、上画像の、踊り用の肌襦袢をずっと愛用していますが、普通はこの肌襦袢は使わないです(笑)。もっとシンプルな、白の肌襦袢が一般的です。
肌襦袢の代わりに、(普通の洋服屋さんで売ってる)チューブトップで済ます場合もあります。


■ 裾よけ(すそよけ)

f:id:nagi0_0:20170321222336j:plain 下半身用の肌着で、ロング巻きスカートのように着用します。蹴出し(けだし)とも言います(江戸風の呼び方)。
これも、私は、上画像の踊り用の緋色のものを愛用してます。普通は、白か薄いピンク色などが一般的です。


■ 足袋(たび)

f:id:nagi0_0:20170321222344j:plain いわゆる靴下です。4枚こはぜが標準です。
本式は綿100%ですが、ストレッチ素材の伸びる素材なども便利です(どんなサイズでもOKだったりするので)。



2:下着Level 2

次に、長襦袢レヴェルでの、下着です。


■ 長襦袢(ながじゅばん)&半衿(はんえり)

f:id:nagi0_0:20170321224640j:plain 長襦袢とは、着ると足首くらいまである、ロングワンピースの下着です。
上画像はアンティークの長襦袢なので、変わった柄が入っていますが、現在の標準は、白か薄ピンク色が一般的です。
長襦袢には、あらかじめ「半衿」を自分でチクチクと縫い付けておきます。ここは、私もハードルの高い(面倒くさい)ところです…。


■ 半襦袢(はんじゅばん)&半衿(はんえり)

f:id:nagi0_0:20170321233511j:plain 半襦袢とは、(足首まであるロングな長襦袢と違って)半身のもので、しかも見ごろ部分は綿でできています。つまり、半襦袢は、長襦袢では大げさなときの略装用として今は扱われています(昔昔は、半襦袢のほうが本式だったんですけどね…)。
でも今は、冬でも暖房が効いていて長襦袢だと暑くなっちゃうので、私は半襦袢で済ませることも多いです。これも、私は、裾よけと同じ緋色で揃えて愛用しています。


■ 衿芯(えりしん)

f:id:nagi0_0:20170321224653j:plain f:id:nagi0_0:20170321231458j:plain 長襦袢or半襦袢の半衿のなかに、「衿芯」というプラスティックの芯を差し込みます。これは、着たときの衣紋のカタチをシワなく美しく見せるためです。
が、昔は衿芯なんて入れていなかったので、好みで入れない人もいます(特に普段着は)。


■ 腰ヒモ

f:id:nagi0_0:20170321224714j:plain 着付けのときに、やたらと使う腰ヒモ(というか、ヒモ)。少なくとも4、5本は欲しいところ。モスリン綿のものが、スベリにくくてギュッと締まるのでベストです。
私は、上画像のような緋色のヒモや、「月影屋」のオモシロ柄のものなどを愛用してます。少しでも、着付けが楽しくなるように…と。


■ 伊達締め(だてじめ)

f:id:nagi0_0:20170321224721j:plain 衿もとを、腰ヒモで押さえた上から、さらにキュッと締めて安定させるのが、「伊達締め」。私は、正絹の博多織のものが好きで、いろいろ集めています。伊達締めはカワイイものが多くて、ついつい買っちゃいます。



3:着物Level

次に、いよいよ、キモノを着ます!


■ 着物

f:id:nagi0_0:20170321234018j:plain 着物についてここでは細かく説明しませんが、大きくわけて、裏地のついている「袷(あわせ)」と、裏地のついていない「単衣(ひとえ)」があります。「袷」は10月〜5月まで、「単衣」は6月〜9月までです。
上画像は私の私物ですが、左が袷の色無地(一つ紋)、右が紗の単衣です。
ちなみに、もし古着の着物を買いたいという場合は、着物の身丈=「自分の身長−5cm 〜 自分の身長+5cm」をメドにするとよいと思います(ジャスト自分の身長がベストですが)。


■ 腰ヒモ or ウエストベルト

f:id:nagi0_0:20170321234028j:plain 長襦袢を着るときに使用した腰ヒモですが、着物を着るときにも使用します。そして、ここは、着付けの肝心要の最重要ポイント
なので、より確実に着崩れを防ぐための、「ウエストベルト」というゴム状の腰ベルトも売られています(上画像)。私は、花柳美嘉千代師匠から教わって以来、こちらを愛用しています。舞踊家さんは愛用者が多いそうですよ。


■ 伊達締め and コーリンベルト

f:id:nagi0_0:20170321234034j:plain 衿もとを、腰ヒモで押さえた上から、さらにキュッと締めて安定させるのが、「伊達締め」。と、長襦袢の項で書きましたが、着物を着るときも同じプロセスをおこないます。
ただ、現在は、より確実に衿もとの着崩れを防ぐために、「コーリンベルト」というクリップ付きのゴムベルト(上画像)で、衿もとを固定する方法が普及しています。私もコーリンベルトで衿もとを固定して、その上から、さらに伊達締めでギュッと衿もとを押さえてます。とにかく、着崩れさせないためヒッシ…。



4:帯Level

そして、ついに、帯を締めます!


■ 帯

f:id:nagi0_0:20170321235652j:plain 帯についても詳しくはここで書きませんが、着物と同じで季節によって違いがあります(江戸時代は季節によって帯の違いはありませんでしたが)。着物が「袷」のときはぶあつい帯、着物が「単衣」のときは透ける素材の帯(絽、紗、麻など)です。
上画像は私の私物ですが、左は裏表同じ織生地の丸帯、右は絽つづれの帯です。


■ 帯板(おびいた)

f:id:nagi0_0:20170321235700j:plain 帯を体に巻くときに、この板(厚紙製)を入れることで、帯がクシャクシャっとシワになるのを防ぎます。
が、明治大正時代くらいまでは、帯板を入れずに体に帯をくたッと沿わせていました(特に普段着は)。現在のように、帯にシワがないことが本当に美しいのか? というのは、議論の余地があると思います。
上画像は、下の水色の帯板が、通常タイプのもの。上の黒い帯板は、実は、前でお太鼓を結んで、この帯板をクルリと回して、ハイ出来上がり、となる便利な帯板です(私はうまく使えてませんが…)。


■ 着付けクリップ

f:id:nagi0_0:20170321235709j:plain 着付けのときに、何かと便利なクリップです。特に、「ひとりで背中で帯を結ばなきゃいけない」場合は、必須です。


■ 帯枕(おびまくら)

f:id:nagi0_0:20170322000910j:plain お太鼓のカタチを作るために使います。いろいろな大きさがあって、好みで選びます。フォーマルになるほど大きめ、カジュアルダウンするほど小さめ、ですね。
昔は、新聞紙など丸めて自作していたようですよ。


■ 帯揚げ(おびあげ)

f:id:nagi0_0:20170322000916j:plain f:id:nagi0_0:20170322000922j:plain 帯枕に掛けて使用します。はた目に見える面積は小さいながら、着物と帯をつなぐ、重要なコーディネートポイントになります。
私は、自分のテーマカラーが「紫」なので、紫系のグラディエーションのものをいろいろ集めています。
また、好きな布を買ってきて自作したり、スカーフを援用したり、という方も多いです。


■ 帯締め(おびじめ)

f:id:nagi0_0:20170322004929j:plain 結んだ帯を、この帯締め一本で固定します。
上画像は私物ですが、私は、右上の冠組(ゆるぎ)と、左下の二分紐・三分紐+帯留め、というのが私の定番です。
私は好みの幅が狭すぎるので(笑)、上記のようなアイテムばかり使用していますが、帯締めは、本当にいろ〜〜んな種類があります。ここは、自分ならではの個性を出せる部分だと思います。





着付け小物がやたらと煩雑になってしまった理由について

というわけで、細々と解説しましたが、いかがでしょうか? これだけのアイテム揃えるの大変…と思われたかもしれませんね。

上記でもすこし触れましたが、このように着付け小物がやたらと増えてしまった背景には、近代に入ってから起こった「装いの変化」がありました。私は、以下の3つが挙げられると考えています。

洋服風にキチッと着付けなければいけなくなったこと

(それなりにフクザツな結び方である)お太鼓結びが(なぜか)標準になってしまったこと

昔であれば女中がいるような身分の人が身につけるような帯・着物を、庶民も着るようになったこと → そのため、自分ひとりで着付けなければいけなくなったこと

こうした社会的変化により、こんなにまで着付けグッズが増えてしまったのだ…ということが分かれば、「着付け小物も決して絶対ではないのだ」ということが、おわかりになるかと思います。つまり、「普段着だったらコレは要らないかもな〜」とか「フォーマルだからコレは絶対必須だな」とか、その着付けグッズの「強弱」の感覚がわかってくると思うのです。

こうした着付け小物やキモノの歴史や文化史的なことがらを知りたい方は、ぜひ、拙著『色っぽいキモノ』をお読みいただけたら嬉しいです〜(宣伝)。


ちなみに、今回ご紹介した私の着付け小物は、かなり「私の好みがディープに反映」されています(「緋色と紫色、多すぎない?」と自分で思う(笑))。なので、コレが絶対というわけでは、決してありません! ので、そこは誤解なきよう。

皆さまがキモノライフを始める際の、ご参考になれば幸いです…!





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月影屋✕井嶋ナギ:連載対談「ナギと!なつきの!高いもん喰わせろ♥」のご案内

月影屋」という唯一無二の浴衣ジャンルを切り開き、ブランド創立15年以上経っても「月影屋」の前にも後ろにも誰もいない…という、真夜中の月明かり道をひた走る「月影屋」のオーナーデザイナー重田なつき氏を、ご存知でしょうか? あ、ご存知ですよね(笑)。

その重田なつきさんと、わたくし井嶋ナギで、対談を昨年から始めております! 題して、

ナギと!なつきの!高いもん喰わせろ♥

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第1回「カッコイイ浴衣について」
第2回「歌舞伎座に行って参りました」

これまでも、なつきさんとはトークイベントなど何度かやっておりますが、活字にしたのは初めてかも。浴衣やキモノについてだけでなく、歌舞伎や建築や、バロックやロココや、何がカッコイイかとか、何が洗練かとか、いろいろなことを脱線しまくりながら話しております〜。誰はばかることない(?)本音トークなので、我ながらかなり面白いと思ってます。

不定期更新ですが、更新情報はtwitterとinstagramでお知らせしてます! ぜひぜひ、ご覧くださいね!




それから、もうひとつ。「月影屋」サイトのprofileページにおいて、「月影屋評」を書かせていただきました!

月影屋、あるいは、鯔背(いなせ)な江戸美学への愛

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「月影屋」の独自性、唯一無二の魅力、なつきさんのユニークな発想や試みについて網羅した、「月影屋評」決定版です〜!(「月影屋」重田なつきさん認定) こちらも、ぜひぜひご覧くださいね!




というわけですが、「月影屋」のなつきさんとは、13年前?くらいからのお付き合いで(出会いの詳細については、対談第1回 「カッコイイ浴衣について」をお読みください)、「月影屋」のヨコシマ浴衣を初めて買ったときから、私は「月影屋」の大ファンです。この10数年、「月影屋」の新作浴衣が発表されるのが、毎年毎年、本当に楽しみで。「月影屋」の新作浴衣がなかったら、なんと日本の夏は寂しいことになっていただろう…とまで思うほど。

もちろん、今年も、「月影屋」の新作浴衣が発表されます。今年はいつ新作発表なのか聞いてみたら、なつきさん曰く、「おそらく5月頃じゃないかしら?」とのこと。5/26からは、表参道ヒルズの同潤館にあるギャラリー「ROCKET」でのポップアップショップが決まっているそうなので、それまでには発表されるでしょうね。楽しみですね〜! 

今年こそ浴衣を着てみたいと思っている方、今年は浴衣を新調しようかなと思っている方、または、毎年浴衣を着るのが楽しみー!という方も、あと1ヶ月ちょっと、2017年の「月影屋」新作浴衣が発表されるまで、「ナギと!なつきの!高いもん喰わせろ♥」を読みながら、首をながーくして待っていただけたら嬉しいです♪



—— 関連記事 ——

井嶋ナギによる、過去の「月影屋」関連記事。
歴史を感じます〜。

■2015年
幽霊と、月影屋の浴衣と、粋について。
■2014年
「月影屋」浴衣で夏祭りへGOの巻★ もしくは、浴衣の形式昇格について。
■2013年
youtube動画『井嶋ナギの浴衣講座』 〜「浴衣って何?」の巻、「月影屋にGO!」の巻
■2012年
2012年「月影屋」新作浴衣&ラフォーレ原宿SHOPレポート!
■2011年
月影屋「色っぽい着付け教えます。着物編」レポートの巻。 もしくは、「柳結び」に「引っ掛け結び」教えます。
緊急レポート☆2011年「月影屋」新作浴衣!!!
トークイベント「『カッコイイ着物姿』って何だろう?」について
■2010年
着付け講座in月影屋のレポートと8月開催のお知らせ
月影屋in伊勢丹レポート。または、キモノとハンバーガー
■2009年
「月影屋」新宿伊勢丹ショップにて、売り子やります。
速報! 月影屋新作浴衣グラビア発表!!! 題して、「火傷すんなよ、ヨロシク。
早くも浴衣計画始動! ~月影屋の新作浴衣とお金問題
■2008年
2008年夏、浴衣決算報告!
対談「艶と刺激と、エレガンスを少々。」 ~または、浴衣で真夜中の散歩
■2007年
お祭りと現代浴衣考



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早稲田大学エクステンションセンターにて、講座を開催します! 

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2017年も開催します! 早稲田大学オープンカレッジ講座「人物像で読み解く江戸キモノファッション文化史 Ⅰ」のお知らせ


まだまだ寒い日が続きますが、もう春ですねぇ。

というわけで、春のお知らせです。去年に引き続き、今年も4月から、早稲田大学オープンカレッジにて講座をおこないます!

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人物像で読み解く「江戸キモノファッション文化史」Ⅰ
  〜花魁、太夫から、町娘、お姫様に悪婆まで〜


【日程】4/15(土)、4/22(土)、5/13(土)、5/20(土)、6/03(土)
【時間】13:00~14:30(90分)
【場所】中野校キャンパス →MAP
    (JR中央線、JR総武線、メトロ東西線 「中野駅」徒歩10分)

【講義概要】
着物が日常着だった江戸時代、身分や職業、年齢などによって装いに差異・特徴があるのは当然のことでした。
そうした時代の装いの「ルール」や「歴史」について、具体的な「人物像」(花魁、町娘、女房など)を設定し、その人物のライフスタイルを見ていきながら、分かりやすく解説します。
また、浮世絵、歌舞伎、日本舞踊、映画、文学などの諸芸術における「装いの描かれ方」についても、資料を鑑賞しつつ、楽しく理解していく予定です。

【各回の講義予定】
4/15 花魁・太夫(1) : 吉原と島原を中心に、遊郭の遊女たち
4/22 花魁・太夫(2)
5/13 町娘・姫君(1) : 江戸で人気の町娘、そして憧れのお姫様
5/20 町娘・姫君(2)
6/03 女房・悪婆  : 江戸と上方の女房、悪婆というアバズレ女

本講座の続編『人物像で読み解く「江戸キモノファッション文化史」Ⅱ』は、今年秋10・11月に行う予定です。


【受講費】
早稲田大学オープンカレッジ会員の方 14,580円
早稲田大学オープンカレッジ会員ではない方(ビジター) 16,767円

【早稲田大学オープンカレッジ会員について】
・会員の有効期限は、入会年度を含めて4年度間(3月末日まで)
・入会金8,000円(税込)
・入会金6,000円の特例あり(ビジターとして過去に受講された方、早稲田大学オープンカレッジ会員の紹介、早稲田大学卒業生、早稲田大学在学生父母、東京都新宿区・中央区・中野区に在住・在勤の方、ほか)
・会員については、コチラコチラを御覧ください
・会員にならずに、ビジターとしての受講も可能です
・ビジターについては、コチラコチラを御覧ください

【申込受付】一般・ビジターは、3/10より受付開始中
【申込方法】Web、Tel、Fax、各校事務所窓口 にて受付中
・お申込みについては、コチラを御覧ください



本講座はどのような内容なのか?


早稲田大学エクステンションセンターでの講座も、今年で4年目になりました! 毎回、切り口を変えながら(文学、歌舞伎、映画などなど)やってきましたが、今年は去年と同じコンセプトではありますが、「江戸時代限定」です(昨年は、秋講座で、モダンガールのキモノについてもお話しましたが)。

今年も、「人物像」を設定し、その人物の「ライフスタイル」もひもときながら、「キモノファッションのルールと歴史」についてお話する予定です。もちろん、さらに、諸芸術文化(浮世絵、歌舞伎、文学、映画など)におけるキモノの「描かれ方・現われ方」といった文化史的な側面も具体的に見ながら、楽しく理解していけたらと思っています。

今回も、春と秋での通年講座です。が、一回一回、違う人物像を設定していますので、春講座だけもしくは秋講座だけの受講でも、もちろん大丈夫です! 基本的には、昨年の講座と同じ内容になっておりますが、できるだけ新しい資料もまじえつつ、お話する予定です。

実際の教室のようすはどんな感じなのかな? という方は、2014年の講座のレポート記事を、ぜひご覧くださいませ。
www.nagi-ijima.com


本講座に隠された(?)「真の目的」とは。


ところで、この講座には、実は、「目的」があります。というか、早稲田大学エクステンションセンターのパンフレットに書いておりますが、

江戸時代の「着物のルール」や「歴史」を知ることで、実際の着こなしに役立てるとともに、歌舞伎、日本舞踊、浮世絵、文学、映画などに描かれた江戸文化をより深く楽しめるようになることを目標とします。



というのが、講座の目的ではあります。……が、実は、その奥に、さらなる「真の目的」がありまして…。それは、私の個人的な目的でもあるので、パンフレットには書いていないのですが、実は、真の目的は、

脳内で、江戸時代のさまざまな人物になりきることができるようになること。



これです。これが私の真の目的です。

「うわぁ…」と思った方、いらっしゃるかもしれません(笑)。大丈夫です、脳内だけです。いきなり時代劇コスプレで現れたりしないのでご安心ください(笑)。

というのもですね、私は学生時代からずっと、歌舞伎、日本舞踊、浮世絵、江戸文学、そのほかもろもろの江戸文化の魅力に捉えられてしまっており、できるだけ正確に理解したいと願っているのですが、そのためには「脳内江戸人」になってしまうのが一番手っ取り早い! と思っているからなんです。

そして、「脳内江戸人」になるための第一歩として、当時のキモノや髪型などの装いを細かく知ることが、非常に有効だと、私は考えているからなのです。

何事も、まずは格好から。鉄則ですよね?(笑)

それは冗談としても、結局、当時の人々の髪型やキモノなどを知ることは、ひいては、当時の人々の職業や身分や生活を知ることにつながらざるを得ない。そこを切り離してしまうと、おそらく、本当の意味では理解ができない。

それに、今までも何度も書きましたが、現代の私たちにとってキモノのルールが難しく感じるとしたら、それは、キモノが日常着だった時代の常識(身分や生活規範や社会的常識)を共有できていないから、に過ぎません。だからこそ、江戸時代のキモノを知ること、そしてその時代に生きた人々のライフスタイルを知ることで、かえって、現代のキモノがグッと理解しやすいものになるはずだ、とも思うのです。


と、ちょっぴり熱く語りましたが、何が言いたいのかというと、つまり、「江戸時代のキモノのことがわかると、歌舞伎や江戸文学や時代ものの映画や小説を楽しめるようになるし、さらには現代のキモノについても理解が深まって、とてもお得ですよ!」です(笑)。


そんなわけですが、講座では、浮世絵や歌舞伎や映画や文学など、さまざまな資料を使って、「着物が日常だった時代を、肌で感じとれる」ような内容にしたいと思ってます! 土曜の昼下がり、江戸への小旅行気分で、ぜひぜひ、お気軽にご参加くださいませ♪




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早稲田大学エクステンションセンターの講座についての全記事

2014年
「人物像で読みとく着物ファッション
    〜花魁、芸者から町娘、モダンガールまで」

「人物像で読みとく着物ファッション」についてのレポートです

「着物で読み解く名作日本文学
    〜夏目漱石から、泉鏡花に永井荷風、有吉佐和子まで」


2015年
「歌舞伎で読み解く着物ファッション
    〜花魁、芸者から御殿女中、町娘に悪婆まで」

「歌舞伎で読み解く着物ファッション」についてのレポートです

「江戸のラブストーリー『人情本』に見る江戸娘の着物ファッション 〜『春色梅児誉美』を読んでみませんか?」
「江戸のラブストーリー『人情本』に見る江戸娘の着物ファッション」レポートです

「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界
   〜歌舞伎、浮世絵から、任俠、花柳界、戦前モダン文化まで」

「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜任侠映画講座、開催しました!」
「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜仁侠映画について、その2
「名作映画に描かれた日本の美と享楽の世界」レポートです 〜仁侠映画について、その3

2016年
「人物像で読み解くキモノファッション文化史 Ⅰ
   〜花魁、太夫から、町娘、お姫様に悪婆まで」

「人物像で読み解くキモノファッション文化史 Ⅱ
   〜芸者、御殿女中から、江戸の色男、近代のモダンガールまで」



芸術と技術について、マジメに考えてみた。

先月(1月)、新橋演舞場で猿之助の舞踊『黒塚』に泣き、つい先日は、シネマ歌舞伎で玉様の『阿古屋』に感動し、「ああ。踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と感じる新年。まぁ、年末も充分、「踊りって、歌舞伎って、いいなぁ!」と一人でわめいてたんですけど(笑)。
(参照→「踊りを「体感する」ということ。 〜『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』in 歌舞伎座」)。

なにか素晴らしいものを見て、心が感動に震えると、この感動を言葉にしたい、誰かにこの感動を伝えたい、と思うものですよね。

だけど、踊りを言葉で語るのは、とても難しい。「素晴らしかったー」「すごかったー」としか言いようがなくて、感動を語りたいという欲求と、それを表現する言葉が私にはないのではという不安が、脳内で闘ってます(笑)。いや、別に「素晴らしかった〜」でいいんですけどもね。

というわけで、踊りについて書く前に、「芸術とは何なのか?」について、一度整理しておきたいなと思い、久しぶりに書きます(長くなりそうな予感…)。

 

 

アートとは、なにはともあれ「技術」のことである。

 

当たり前のことを言うようですが、踊りは、「肉体のアート」です。バレエやジャズダンスのような西洋の踊りにしても、舞や舞踊のような日本の踊りにしても、アートといってさしつかえないはず。

では、アートって、何だろう? 

通常、私たちは、アート=artという言葉を、「芸術(美術)」という意味で使用していますよね。だけど、実は、アート=artという言葉には「技術・技法」という意味もあるということを、ご存知でしょうか? と言うか、実はむしろ、そちらのほうがより語源に近いのです。artの語源は、ラテン語のars(アルス)、さらにその語源は、ギリシア語のtechne(テクネー)。つまり、自然に対しての「人工」、そしてそのための「技術やワザ」、というのがそもそもの第一義だったわけです(今だったら、英語のskillとかtechniqueに近いのかもしれませんが)。

そう考えると、アートというものは、「芸術」うんぬんの前に、まずはともかく、「技術」「スキル」「ワザ」ありきだ、と。

どれだけ、その技術を磨いてきたか、どれだけそのスキルの鍛錬を積み重ねてきたか、どれだけそのワザについて試行錯誤してきたか。当たり前のようですが、まず、そこが根底にあってこそ。そうした技術の蓄積や鍛錬が土台にあってこその芸術だ、ということをまず最初に確認しておきたいといと思うのです。

なぜそんな当たり前のことを言うのか? というと、技術レベルでの評価ナシでの、個人的な感想や印象論として「芸術」が語られることが多いような気がするから(もちろん、日常会話レベルならそれでいいのですけども)。また、それほど技術がなくても自己表現=「芸術」「アート」と称していいじゃない、というような流れがあるように思うからです(もちろん、教育や教養やビジネスとしてはそれでいいのですけども)。

でもそれが慣習になってくると、「芸術」と「技術」とは別のものということになり、それがさらに高じると、「芸術」と「技術」は切り離して考えるべき、というべき論にもなりかねない。それはちょっと違うかな、と常々思います。

 

 

北斎の作品は、「芸術」なのか?

 

先ほど、技術の蓄積が土台にあってこその芸術だ、と書きましたが。そうすると、じゃあ、その「芸術」って何? という話にもなりますよね。

芸術とは、「芸術家の自己表現であり、作り手の魂が込められた作品であり、人々を感動させ、人々の価値観をも変えてしまうような創造物」である…というのが現在における「芸術」の説明になるかと思いますが、これは、比較的新しい、近代以降の概念です。

たとえば、今では世界的に偉大なアーティストとして知られている、江戸時代後期に活躍した北斎は、生涯、あくまでも職人絵師として生きたのであって、芸術家として生きたわけではありませんでした。

でも、北斎の人生をたどって見ると、もう現代人の私からしたら「芸術家そのもの」としか言いようがないほど芸術家スピリットの塊です。オモシロ奇人変人なところも、典型的すぎるほど芸術家そのもの。(ホントにオモシロ奇人なので、ぜひ以下の記事をお読みくださいませ。↓)


さらに、北斎の絵を見れば、もう、岡本太郎じゃないけど、「芸術は…爆発だ!」と口走ってしまいそうになるくらい、「芸術そのもの」。つまり、現代に生きている私たちは、北斎に、いわゆる「芸術」を感じざるを得ないわけです。

となると、じゃあ、その、私たちが否応なしに感じてしまう、いわゆる「芸術」の正体って一体何なんだ? と。

ものすごく乱暴な説明であることは承知ですが、私はこう思ってます。

現在、私たちが「芸術」と呼ぶものの本質は、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。


 

 

北斎の『神奈川沖浪裏』を見たとき、私たちは何を感じるか?

 
と、ちょっと論が先回りしすぎました。

たとえば、北斎の有名な『神奈川沖浪裏』を見たとき。私たちの内面には、どのようなことが起こるでしょうか?

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ああ、この魂の震え! この感動の炎! 私をこんなに熱くさせる凄まじいエネルギーを持ったこの作品! これこそ、まさに、芸術だ!

…と、素晴らしい作品(それが絵でも文学でも漫画でも映画でも踊りでも歌舞伎でも何でも)に出会うたびに、私はそう思います。割と、しょっちゅう、感動してます(笑)。そして、自分がその芸術によってどれほど心動かされ、自分がどのように何かを感じ、何を考えたのかについて、なにかもう言いたくてたまらなくなります。

もちろん、「この構図は」「この浪の飛沫の表現は」「この富士山が極端に小さく描かれているこの効果は」などなど、北斎の高い技術について語ることもできます。だけど。技術の分析だと、この震えるような感動を、もうぜんぜん、言い表せない。だって、こんなに感動で胸がいっぱいなのに、技術とか構図とかそんなことじゃないんだよね! …それで、ついつい、自分がどう感じたのかということに夢中になって、技術をしっかり見て評価することがなおざりに…ということは、結構、多いのではないでしょうか?

確かに、「芸術」を受けとめて味わうにあたって、「技術」うんぬんは枝葉末節です。「技術」は、「芸術」成立のための絶対条件の土台ではあるけれど、本質ではない。


それはそうなのです。だけど、しかし、それでも、まず最初に確認しておきたいのは、この感動を生み出した「芸術」の土台になっているのは、あくまでも、北斎が一生をかけて異常なまでに執着して磨き上げてきた「高度な技術」である、と。そのことは、絶対に忘れてはいけないと思います。

 

 

「なにか」が無ければ、「芸術」ではない!

 

と書くと、「じゃあ、高度な技術さえあれば、感動できるのか?」「じゃあ、高度なスキルさえあれば、芸術なのか?」と言われるかもしれませんが、もちろん、それは違います。「技術があって上手なのは認めるけど、面白くないのよねぇ、感動がないのよねぇ」ということ、よくありますよね?

先ほど、ちょっと先走って、

「芸術」とは、「高度な技術を駆使してつくられた創造物」に接したときに、「受け手の内面に生じる感動」のことだ、と。

と書いてしまいましたが。

それほど、受け手の心を震わせるほどの大きな感動を与えるには、「高度な技術・スキル」だけでは、やはり足りないのです!

もちろん、「高度な技術」があることは絶対条件ですが、さらにその上に、プラスアルファである「なにか」が必要になる! そうです、サムシング、ってやつです(英語でもsomethingには、「重要なこと」か「真実」などの意味がありますが)。

なにか」とは、たとえば、その作品が醸し出す空気・ムードのようなものだったり、抽象的なことだったり、形而上的なことだったり、具体的に明言するのはとても難しいもの。だけど、「確実に感じることができるもの」です。

さらに言えば、それは、個々の作り手によって、全く違うものだったりします。現代的な言い方だと、「個性」としか言いようがないような。それは、一面では、作り手の「クセ」とか「偏り」とか「執着」とか「偏愛」とか「」とか、そう呼ぶしかないようなものかもしれません。それは、一面では、作り手本人も「やむにやまれぬようなもの」とか「できることなら解放されたいようなもの」なのかもしれません。

でも、そうしたものと接したときに、日常生活とは別の次元で、(自分以外の)人間と魂が共振することがあるし、生きることの本質にふと触れたような気がすることがある。それを私たちは「感動」と呼んだりしているのでしょうけれど、それが「芸術」の肝(キモ)なのではないでしょうか。

「芸術」に奥深さ、深遠さ、神秘性を感じるのだとしたら、この「これとハッキリ具体的に掴むことはできないけれども、それでも確実に感じる、このなにか」の存在があればこそ。

それこそが、「芸術の本質」だと思うのです。

 


 

「受け手の感性や解釈」もまた、「芸術」をつくる

 

「芸術」が成立するには、「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」が必要である。異論はあるかもしれませんが、一応、そうだと仮定して。だけど、これだけでも、まだちょっとだけ、足りない。「芸術」が成立するには、実は、あともうひとつ、とても小さいけれど、でも確かに必要なものがある。

それが、「受け手の感性・解釈」です。

「高度な技術」と「プラスアルファのなにか」によって創造された作品を受けとめる、受け手の「感性・解釈」。これによって、作品は、「芸術」になったり、「芸術」にならなかったりも、する。

わかりやすい例をあげてみると、現在「文句なしに万人が認める素晴らしい芸術」として価値を認められているものが、長い間、全く評価されずに埋もれていた…という例には、いとまがありません。

すぐに思いつくところでは、たとえば、ヴィヴァルディは生前はとても人気がありましたが、死後100年以上(1700年中期〜1800年代末期くらいまで)、一般からは忘れられていました。『四季(ヴァイオリンコンチェルト集)』なんて、あんなに分かりやすくて楽しい曲、きっと「ポピュラーミュージック」としてしか見なされなかったんだろうなぁ、と勝手に思ってます(笑)。

ちなみに、ヴィヴァルディ再評価のきっかけとなったのは、これもまた、死後100年以上すっかり忘れられていたバッハの再評価がきっかけでした。バッハは音楽専門家には知られていましたが、一般には古くさい作曲家として(音楽にも流行があるので)ほとんど忘れられていたそうです。だけど、1829年にメンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を演奏したのをきっかけに、バッハが再評価され、関連してバロック音楽というジャンルも再評価されていった。

絵画でもそういうことはよくありますよね。たとえば、ファン・ゴッホとかアンリ・ルソーセザンヌなど、生前は全然評価されなかったのに、死後に芸術としての評価がウナギ登りとなったよい例です。

と、こういう話をしているとキリがないのでやめますが、そうしたエピソードを知るにつけ、「芸術って何だろう?」と、いつも思うのです。作品じたいは全く変わっていないのに、評価は、時代によっても変わるし、人によっても変わってしまう

作品は作品としてこの世にあるけれども、それを「芸術だ」と判断するには、どうしてもそこに「受け手の感性や解釈」が必要になる。良いとか悪いとかではなく、ただ、「そういうもの」なんだろうなと。

そして、言い方を変えれば、「受け手」もまた、「芸術」をつくる小さな力となり得るのだ、と。

 

 

自分には自分なりの「芸術」があってもいい、ただし勉強はしなければならない、という話

 

もちろん、だからと言って、「芸術」というものの価値を下げたいということではないですし、また、必要以上に「芸術」を持ち上げるつもりもありません。ただ、「そういうもの」だと認識しておくことは、大事なことだと思うのです。

そして、「そういうもの」だと認識しておくと、ちょっと良いことがあると、私は思ってます。そのひとつに、他人の(特に権威のある方々などの)言説を、すこぉしだけ、疑ってみることができるようになる、というのがあります(笑)。

たとえば、歌舞伎のレビューなどで『先代と比べるとお話にならない。不出来。』とバッサリ切り捨てているのを目にして、「私、こないだ見に行って感動したんだけどなぁ。でも、こんなプロの評論家が書いてるんだから、私が間違ってるのかも…」ってこと、ありますよね? あれっ、ないですか? 特に、歌舞伎評論って、ほかのジャンルに比べて、バッサリ切り捨て系が多いのが、ちょっと不思議でして。って、そんなことはまぁ置いておいて(笑)。

とにかく、「芸術」の評価というのは、絶対ということは決してなくて、必ず「受け手個人の感性・解釈」が含まれているものだ、と思うのです。

そう考えると、その人その人それぞれの「芸術」があり得ることにもなりますよね。△△さんには△△さんなりの感性・解釈による「芸術」があるし、◯◯さんには◯◯さんなりの感性・解釈による「芸術」がある、と。だから、自分がそう感じたのなら、そう感じた自分なりの「芸術」がある、と。どちらが良い悪いではなくて、「そういうもの」なのではないか、と思うのです。

なんてことを書くと、「じゃあ、私の感性とやらで、私が感じたまま、好きなように芸術を評価しちゃってもいいのよねー」って話になりかねないので、それは違う、ということも、強く言っておきたいです。



というわけで、実は、話は最初に戻ります。

最初に、芸術は、何はともあれ、「高度な技術・スキル」の蓄積が土台にあってこそ、と書きましたが。

それと同じように、芸術を受けとめ評価する側にも、その技術・スキルを見分け、理解し、判断するための「技術・スキル」が必要なのではないでしょうか? つまり、評価する側も、それなりの勉強が必要だ、と。学ぶ姿勢が大切だ、と。

もちろん、あくまでも、理想です(笑)。実際問題で考えたら、シロウトはプロの方々と同じような修行や勉強なんてなかなかできないし、そこまでやるべきとは言っていません。

でも、受け手にも、そのくらいの謙虚さや真剣さがあってもいいし、そのくらいの「理想」があったっていい。そう、最低でも「理想」を持っているだけでも、違うんじゃないかな、と(希望)。

というわけで、不勉強な自分を擁護するわけではありませんが、「理想」だけは持ち続けつつ、今年もいろいろなところで「感動」したいな! とそう思うのです。







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